写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る

ミレーの自画像デッサン  新発見の写真   ナダールの写真  フアルダンの銀板写真  フアルダンとナダールの写真比較  修整問題 ミレーと母  26歳のミレーの油彩自画像  若いミレーの肖像写真  三葉の写真の比較  生え際の比較  耳の比較  ミレーの母と新発見の写真  新発見の全身像  1862年キュベリエ撮影のミレー  杖の拡大 巻末  【追記1】ナダールの修整  【追記2】ミレーと母親の写真年代  索引
 

1.ミレーが写っていると思われる写真の発見



偶然手に入れた写真にミレーと思われる人物を見つけましたが、果たして本当にミレーでしょうか?

感想をお寄せください。
ミレーについて


○ 最初にミレーの自画像デッサンを紹介します。

自画像デッサン1845〜6年[1]

このデッサンが頭の中にあって今回発見した写真の人物を「もしかしたら、ミレー?」と思ったのが始まりでした。ミレーが三度目のパリに挑戦する1845〜6年頃の作です。
岩波文庫の「ミレー」ロマン・ロラン著の口絵になっていたのでよく記憶していたのです。
(このデッサンの写真はペイテルPEYTEL氏所蔵の時、写真家ブロンBRAUNによって撮られ、「我々の時代の芸術・ミレー」に掲載されたものです。従って著作権は失効しているものとして、掲載します。)

○ それでは、今回発見した「写真」の人物をご覧ください。

新発見のミレーの顔写真[2]

当然年齢の差は感じるし、顔の向きが違い、髪形も違いますが、似ていませんか?


○ 次に、ミレーといえば、これ、ナダール撮影の肖像写真をご覧ください。
   (この写真はRMNのサイトより使用料を払って利用しています。著作権があることを考慮してください。以下同様。)
ナダールについて


ナダール撮影のミレーの顔写真[3]
© Photo RMN


比較すると、今回見つけた肖像写真とは同一人物と思えないかも知れませんが、[1] の自画像デッサンも一緒に参照していただければ、掲載した三点の肖像が、全体的に顔が長めで、鼻の形やひげの生え方などの大まかな部分で似ていることに異論はないと思いますが、いかがでしょう。
先頭

ミレー自画像デッサン1845〜6年
1845〜6年のミレー自画像
.
新発見のミレー顔写真
発見した「写真」の人物
.
ナダール撮影のミレーの顔写真
1855〜60年のミレー肖像写真
ナダール撮影、© Photo RMN


○ それでは、デッサンを除いた、二葉の写真を見比べて相違点を分析、検討することにしましょう。

まず、表情がはっきり違います。つまり口ほどにものを言う目付きが違います。その上、頭髪、及びひげを短くしているか、頭髪を整え、ひげは伸ばしているかの違いがあります。そして、決定的な問題に耳の形の違いを挙げなければなりません。

   A. 目付きの違い   B. ひげと髪型の違い   C. 耳の形の違い 
となり、以上のことを頭に入れて    

1. まず、ナダールの撮影した写真について調べます。

ナダールの写真展カ     タログ表紙
カタログ表紙
ナダール写真展のカタログによると、写真原板は喪失しているとあり、撮影時期は1855〜60年と推定され、現存するネガは息子ポールによるネガから起こしたネガで、展覧会に展示されている写真はそのネガによるポジ写真とありました。又、カタログ序文に、ボナとカリエールとミレー( 3人とも19世紀後半のフランスの画家です )のオリジナルネガだけが欠けているとあり、それら写真の詳細を調べると、ボナの写真は1885〜87年にボナのアトリエで撮影され、カリエールは1906年の臨終の写真で、臭化ゼラチン乾板写真のネガから起こしたネガによる写真とあります(1871年イギリス人マドックスが臭化ゼラチン乾板を発明)。しかし、ミレーは他の著名人肖像写真と同じにナダールの写真スタジオで撮影され、年代と解説からオリジナルはコロディオン湿板写真であることがわかります。
前二葉の写真は、ナダールの写真スタジオの外で、乾式感光板、つまり感光板をその場で用意する必要のない写真技術が開発された後に撮影されています。改めてミレーの撮影に使われた湿式写真について調べると
 湿板 : しっぱん(シツバンとも) ガラス板に沃化物を含むコロジオンを塗布し、これを硝酸銀溶液に浸し、膜内に沃化銀微結晶を作って、濡れているうちに撮影・現像する感光材料。現在は、ほとんど使用されていない。≠乾板  ( 広辞苑より )
ということで、感光液が乾燥する前に撮影・現像する必要があり、他の著名人同様、ミレーもナダールの写真スタジオに出向いて撮影されたことがわかります。
ナダールのサイン
© Photo RMN
オルセー美術館所蔵の紙に焼かれた写真には独特のナダールのサインがあり、下にサン・ラザール113番地、その下にミレーと書かれています。この番地はナダールの最初の写真スタジオがあった場所で、1854〜60年までの住所と確認されています。従って、オルセー美術館所蔵の紙に焼き付けられたポジ写真は間違いなくナダール本人が現像したものと断定できます。

それにしても、ひとり息子ポールに相続された、ナダールの写真スタジオで撮影された十九世紀の著名人の他のコロディオン湿板写真原板(ガラスネガ)はきちんと保管されているのに、何故ミレーの写真原板(オリジナルネガ)だけが存在しないのでしょうか? 唯一、それだけが、気になります。

2. ナダール撮影のミレーの肖像写真は、記載住所によって撮影時期が推定されるだけで、年代は特定されません。ミレーを援助し、最初にミレーの伝記を書いたサンシエによると、1856年から数年間がミレーにとって最も厳しい試練の年ということで、肖像写真はまさにミレーがバルビゾンで貧困にあえいでいたその時期に該当するようです。
 尚、サンシエは写真に定着されたミレーの表情が気に入らなかったようで、写真画像に対して「技術的に未熟なために誇張された虚像だ」と書いています。

3. 新発見の肖像写真は1863年と査定され、ミレーは1860年に月千フランの個人契約が成立、以後かなり裕福な経済状態が続き、貧乏から完全に解放されています。生涯貧乏な農民画家というのは、現在では、最初に書かれたサンシエのミレーの伝記によって生まれた神話とみなされています。

これらのことから、A. 目付きの違い B. ひげと髪型の違い C. 耳の形の違い について次のように考えました。

A. については、まず、人間の喜怒哀楽の感情を表現する顔の表情のなかで、眉、目、鼻、口の形の変化を考慮して、写真に固定された表情の分析をすると、サンシエによれば、ナダールの写真は「貧困にあえいでいた時期」で、生活苦を隠し、虚勢を張るミレーの姿と見れば、眉を寄せ、目を開き、睨みつける顔は、都会人に対していつも警戒心を持っていた田舎者ミレー(これも神話の一つでしょう)が身につけた自己防衛の仮面で、それをサンシエは「誇張された虚像」と呼びますが、それは写真技術の未熟さ故ではなく、ミレーの劣等意識が画像として定着されてしまったと言うべきでしょう。それに比べて、新発見の写真の顔は、生活も安定し、目付きも穏やかになり、バルビゾンに訪ねてきてくれた仲間との記念撮影で微笑んで頬が緩み、目尻も下がり、くつろいだ表情が見られ、自画像デッサンの表情と見比べても特に違和感なく、普通のノルマンディー人として、サンシエが「実像」と考えるミレーに近いと思われます。骨格だけではなく、年齢、感情によって変化する顔の表情も加味して、二葉の写真を分析しましたが、いかがなものでしょうか?
 追記:後に画家ウーヴリエのナダール撮影の肖像写真にも同様な眉間のしわを見出したので、ミレー神話に影響され、虚栄心ともいえないくらいのしかつめ顔を、劣等意識の現われとの解釈は撤回します。

B. については、かって日本もそうでしたが、当時フランスでも、夏になると髪を短くして涼を求める習慣があり、次に示すフアルダン撮影の銀板写真にも短髪のミレーの姿が写っています。それと、自画像デッサンの長髪姿を見れば、ミレーは髪や髭に対して年とともに無頓着になり、或いは、子が多くなり、頓着するほど経済的に余裕がなく過ごした習慣で、夏は短く、冬は長く伸ばしていたと思われ、新発見の写真が初夏に撮影されていることと一致します。

C. については、当初、ナダールの写真のミレーの耳の上は髪に隠れていると思っていましたが、よく観ると、違うようで、普通の耳の形ではないようです。従って、今回の新発見の人物の耳が普通である以上、その人物がミレーであると認められるには、ナダールの写真のミレーの耳が本当の形でないことを証明しなければなりません。すぐ思い付いたのは修整されたのではないかということですが、証明するのはかなり難しく、新発見のミレーは頓挫するかと思われました。

しかし、偶然、下記の新聞記事()を見つけ、時代的にも一致し、ナダール撮影のミレーの肖像写真の耳は修整されている可能性がないとは言えない裏付けが取れました。

 それは、2004年5月30日の読売新聞で、「1866年に長崎市内のスタジオで(上野彦馬によって)撮影されたあの有名な坂本竜馬の肖像写真がネガの段階で墨などで修整されていたことが判明した」 という記事です。


当時の技術が未熟なため、紙に焼く際仕上がりを鮮明にするのに一般的な方法であったとあり、当時はガラスは高価なため、紙焼きした後に画像を削ってガラスを再利用したので、修整が確認された例は珍しいと書かれています。写真発祥国フランスでは修整技術もそれなりに開発されていたと思われますが、写真家各自の機密事項として文献にも残らず、また、写真機材の進歩に伴い、急速に修整技術は不用になって行き、今日では研究対象にもならないのでしょう。今回の長崎の発見は、たまたま著名な坂本竜馬の写真なので新聞記事になり知ることができました。ここで重要なのは、修整が一般的に行われていたことを示唆していることです。上野彦馬は蘭書から写真術を習得していますが、細かい修整方法が蘭書に書かれていたとは思えないので、手探りで独自の方法を探したと思いますが、ネガを修整して仕上がりを鮮明にするなどの解説はあったかもしれません。修整がナダールと同じ方法だったとは思えませんし、それがそのまま、ナダールのミレーの写真の修整の証拠にはなりませんが、当時の技術では必要性があり、充分にありうることを示唆しています。
上野彦馬撮影の坂本竜   馬の肖像写真

・新聞記事の著作権に関してよくわからないので、新聞名と日付を記しました。確認したい方は「竜馬」と「写真修整」でインターネット上で調べてください。又、日本の写真術の開祖、上野彦馬に関しては長崎大学薬学部のホームページの「化学者としての上野彦馬」に詳しく紹介されています。上野彦馬の竜馬の肖像写真についての著作権は「昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。→写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。」(インターネットの「写真の著作権について」より)に該当すると言うことで掲載させていただきます。しかし、写真を所有しているわけではないので、解像度を落として掲載することで、イメージの利用価値を少なくし、著作権を尊重することにしました。それでも、著作権に抵触する場合は、連絡頂ければ速やかに対処いたします。長崎大学へリンクの許可申請で大学附属図書館の日本古写真を含む電子化コレクションの存在を知りました。インターネットの有効利用としてこう言うサイトが増えるといいですね。
 「化学者としての上野彦馬」 電子化コレクション

ナダールのスタジオで撮影されたガラス写真原板は大量に残されており、削られて再利用されたとの記述はありませんが、同様に修整に関する記述も見つかりません。ただし、保管されていると記述されているのは当時の著名人の原板ネガに関してで、一般顧客の原板ネガもすべて保管されているとするとその量は膨大なものとなると思われ、記述はないのでなんともいえませんが、著名人の肖像写真はナダールに収入をもたらすものだったので、大切に保管されていたと考えられます。多分、竜馬のネガが残されたのも維新の英雄なる故と思えます。それなのに、ミレーの肖像写真原板オリジナルだけが存在しないということに何か特別な訳があったのではないかと想像力を刺激されます。
先頭

○ 前述したように、写真を見付けた後の調査で、ナダールの写真のミレーの耳にそれ程注意を払わなかったのは、単に耳は半分髪に隠れていると見ていたからで、又、ミレーの耳に付いての記述が皆無であることもあり、その上、前記したフランス国立図書館所蔵のフアルダンが1854年に撮影した銀板写真の肖像に、普通のミレーの耳を見ていたので、疑問を持たなかったわけで、それを見て頂きます。

・1854年、この年画が売れて、夏の4ヶ月を郷里で過ごしたとミレーの伝記にあります。この時友達のファルダンが家族の写真を撮ったものです。その時初めて知り合ったファルダンの息子とミレーの長女は、普仏戦争でミレーが家族を連れてシェルブールに避難している間の1871年9月に結婚しています。この時期には多くの人がミレーを訪ねてシェルブールに来たようで、サンシエもミレーの生まれ故郷を訪ね、ミレーが若い時模写に励んだシェルブールのトマ・アンリ美術館などを案内されています。年代が飛んでしまいました。地方都市に於いて、1854年の写真のまだ黎明期に、フアルダンによってダゲレオタイプでの銀板写真に貴重なミレーの肖像が残されていた事は奇跡に近いものかもしれません。
 先年の1853年、母親が亡くなり、この年バルビゾンで、ルソーらの立会いのもと、村役場で正式に籍を入れました。その記念の撮影であるとバルビゾン派美術館管理者カイユ女史はWebサイトに書いています。しかし、フアルダンがわざわざバルビゾンに赴いたとは考えられず、ミレーがシェルブールに行った折のことと思われ、理由がなく撮られた写真ではないことがわかりました。 しかも、ナダールが試行錯誤しながら試みていたコロディオン湿板写真ではなく、ダゲレオタイプの銀板写真で、1枚だけのポジ写真で、修整はないものと考えてよいでしょう。
フアルダンについて

フアルダン撮影ミレーと家族 フアルダン撮影ミレー  ミレーの頭部拡大[4]
© Photo RMN
この写真によりミレーの耳が普通の形であったことがわかります。もし、ナダール撮影の湿板写真のガラスのネガが修整されることなく感光紙に焼き付けられていたとすると、ミレーの耳は事故か何かで変形したわけで、記録として残され、何かの事情でミレーの耳が変形したと確認されれば、いくら他の部分が似ていても、この段階で、はっきり新発見の人物はミレーではない事になります。

◎ 重要な問題なので、この撮影時期が1854年夏とはっきり確認できるフアルダンの写真と撮影時期が1855〜60年と推定される、原板の失われたナダールの写真を並べて、改めて、耳の形を確認します。


先頭
フアルダン撮影ミレー銀板肖像写真 右の耳拡大 左の耳拡大 ナダール撮影ミレー肖像写真[5]
© Photo RMN

この二葉の写真は頭髪を除けば、写真に対して身構えた顔つきがよく似ているので、それ程離れていない時期と思われます。しかし、写真の方式による露光時間 (ダゲレオタイプは改良されて1分。コロディオン湿板式は10秒以下) の違いが、ポーズと目付きに表れていると思います。ダゲレオタイプはネガのない銀板ポジ写真で修整はないと考えられ、ナダールのコロディオン湿板写真ネガが修整されてないとすると、この二葉の写真の間で何かが起き、ミレーの耳の形が変わった事になります。この耳の形が、非常に重要な問題点なので、重点的に検討してみます。



誤認】 重要な誤りに気付きました。銀板写真のイメージは反転している事です。つまり、同じ側の耳の比較ではないので上記の耳に関する比較は意味を成さないことになり、ナダールのミレーの肖像写真の耳の形と新発見の「写真」の人物との耳の形の違いにフアルダンの1854年撮影のミレーの銀板肖像写真の耳の形は有効ではありませんでした。従って、本来「この項は没」ですが、ミレーの本来の耳の形は、ナダール撮影のミレーの肖像写真の耳の様に小さな耳ではなく、普通の大きさの、普通の形をした耳であるとの証明として有効であり、比較は無効ですが、修正問題の提起には有効なので残します。提起された修整問題はナダール撮影のコロディオン湿板写真なので、ガラスネガに手が加わった可能性の追求を続けます。
 銀板写真の反転画像はページの後に掲載しました。  (その画像へ)





既にサンシエはバルビゾンに住むミレーに経済的援助もし、パリで画の代理人にもなり、かなり親密な書簡を取り交わし、ミレーの身に起きたことはすべて知っていると思われ、前記したように1856年以降の数年間がミレーにとって経済的に一番つらい時期であったと書いていますが、耳に関しては何も伝記に書いていません。アメリカ人ハント(1855年まで)、引き続きウイールライトが9ヶ月バルビゾンでミレーの画の生徒になり、身近にいましたが、彼らも耳に付いて何も書き残していないようです。しかし、肉体的欠陥を取り立てて書かないことが記述者の良識とすれば、残されていないのは当然かも知れません。

ミレーの最初の奥さんポリーヌとの生活について、肖像画を何枚も描いているのに比べほとんど語られていません。それはミレーが話題にするのを嫌がったからとのことです。同様に、耳のことも嫌な思い出として語ることを避けたのかもしれず(例えば、決闘をして、剣で耳の上をそぎ落とされたとか)、従って、ミレーの耳について誰も書き残していないからといって、残念ながら、ナダールの写真のミレーの耳が修整されたと即断することはできません。

ミレーの肖像写真として一番知られたナダール撮影のこの写真は、当時の著名人の写真を多く残したナダールによる肖像写真として問題なく受け入れられ、今まで修整の有無を公式には検討された形跡がないようです。オリジナルネガが存在せず、(修整済みの)ポジ写真のみが公表されていたとすれば、比較すべき(無修整の)最初のポジ写真がない以上問題にされないのも当然と思われます。

しかし、1866年撮影の有名な坂本竜馬の写真が修整されていたことが運よく残されていたガラスネガを調べることで判明したという記事は、日本人が器用だったからではなく、写真技術の問題で、先進国フランスに於いても、同様なことが行われていたことを充分に証拠立てていると思われます。

カタログにある他の著名人の肖像写真の原板が残されているのにミレーの肖像原板だけが見つからないと記載されていますが、サンシエに「技術的に未熟」と批判され、しかも、写真の修整が失敗だったためナダールが恥じて原板を隠してしまったと考えるのは牽強付会というものでしょうか?
ナダール撮影ミレー肖像写真の顔
© Photo RMN
 
原板が喪失した理由を修整に結び付けた推理をしましたが、感光紙に焼き付けられたナダールの撮影の肖像写真をもう一度よく見てください。
 もじゃもじゃのひげの自然さに比べ、後頭部側面、耳半ばまでの後背と髪の稜線に不自然さを感じないでしょうか?

耳近くの髪の毛の乱れを修整したときに髪に半分隠れていた耳の形を見誤り、耳が半分で切れたように見えてしまうような修整をしまったという分析が一番妥当と思われますが、いかが思われますか?

○ 重要な問題なので、しつこくナダール撮影のミレーの肖像写真の部分検証をします。


ナダール撮影ミレーの顔写真分割

ナダール撮影ミレーの顔写真分割______________ナダール撮影ミレーの顔写真分割[6]
© Photo RMN

左下の写真、後頭部側面は油をつけて整髪したようにぴたっとして、ひげの部分や頭の上に毛が飛び出している部分と比べて、不自然ではないでしょうか?

先頭
ナダール撮影ミレー額部分
© Photo RMN

この部分に髪の乱れが見られません


ナダールのこの写真を総括すれば、本来、髪に隠れていたと思われる耳が、半分切れたようになっていなければとても、修整されたなどいう発想も湧かず、きちんと整髪し、気難しい顔をし、服は多少くたびれてはいますが、胸板厚く、貧困に喘ぐ農民画家などとはとても思えない、ミレーの代表的な肖像写真と言われるのも当然なほど、立派な肖像写真に仕上がっています。

ナダール撮影ミレーの肖像写真    ナダール撮影ミレーの肖像写真の顔拡大
© Photo RMN




ここまで修整の有無を検討してきましたが、原板が存在せず、修整前のポジ写真が存在しないので確定することは難しいと思います。多分、ナダール撮影のミレーの肖像写真が修整されているのではないかという疑問の提示も初めてと思われ、新発見のこの「写真」と共に、問題提起になると思いますが(或いは、まったく無視されるのか?)、フアルダンの銀板写真の画像反転を忘れて比較するような、検証の未熟さを露呈し、尚且つ、決定的な証拠の提出ができずに、現段階でのナダール撮影のミレーの肖像写真の耳が修整されている可能性の指摘だけでは、この「写真」の人物がミレーであるともないとも言えず、ナダールのミレーの肖像写真を離れて検証を続けたいと思います

【追記1】ナダールの修整について 2006/04/05(一部書きなおし 2007/07/01)





◎ 次に未詳のフアルダン撮影のミレーと母親)の写っているダゲレオタイプによる銀板写真を示す。

最終的結論として、ここに掲載の写真は、残念ながら、ミレーの同定査定にはあまり有効ではありませんでした。従って、消去して、査定過程を判りやすくすべきとも考えましたが、フアルダンとミレーの関係、及び、親切にタイトルの変更をメールしていただいた、A・I氏の事もあり、それに、この銀板写真に写っている、妹との比較はノルマンディー人の特徴として有効なので、とりあえず残すことにしました。
(2013年9月15日記す)

◎【重要な追記、及び訂正 2013年9月15日】 下記の写真のタイトルの変更について問い合わせた返事が1年後(2013年4月20日)に、オルセー美術館の写真部門より届きました。要約すると、入手当初の伝聞により「ミレーと母親」と言うタイトルをそのままつけたとの事で、現在の「画家ミレーの弟と妹」と言うタイトルも確信がないようですが、「ミレーと母親」のタイトルを裏付ける文献がないので、「画家ミレーの弟と妹」のタイトルを採用していると言うことです。「ミレーと妹エメリー」のタイトルに対してはエメリーの方がミレーよりずっと年上に見えると返信にありましたので、サンシエによるミレー伝記に「ミレーには姉がいて第二子である」と記載され、エメリーは老け顔であったのかもしれないと言う推測から、その文章を原文からコピーしたものを送りましたが、回答はありません。しかし、気になるので、下記に掲載したカルジャーのミレーの肖像写真とフアルダンの銀板写真のミレーと若者の肖像写真を同じ寸法で透明フィルムに印刷して、重ねて検討すると、小鼻の形状とひげで隠れているものの顎の形状の僅かな違いから、よく似ているものの、同一人物とは査定できかね、第三者の意見も参考にすると、次に掲載の写真の若者をミレー本人とすることは出来ないと結論しました。従って、本来なら、マイナス要因になってしまった、この写真に関して全て消去した方が、「写真:ミレーと6人の画家たち」に於ける、ミレーと思われる人物に関する同定検証には良いと思いますが、あえて、写真の人物同定の難しさの実例として、残すことにします。

【重要な訂正】A・I氏より(2012/03/29)メールでこの写真のタイトルが「画家ジャン・フランソワ・ミレーの弟と」であると指摘があり、RMNのサイトで調べると、タイトルが変更されていました。タイトルの件と共に、サンシエによるミレーの伝記に「ミレーには姉がいて第二子である」が間違いであると、ミレー家の家系図(Pierre Leberruyer著「ミレー 郷里で」からコピーしたもの)を添付していただきました。突然のことで驚きましたが、確かに、家系図から1850年撮影とすると母親は62歳になり、このノルマンディーの地方衣装を纏った女性がその歳には見えないので、ミレーの母親ではないのは間違いのないことと思われました。では誰なのか? 家系図でこのファルダンが撮影したダゲレオタイプの銀板写真を検討した結果、タイトルを(RMNのタイトルと違いますが「ミレーと妹エメリー」と変更したいと思いますが、問題は撮影年代です。とりあえずは、同じDNAを持つきょうだいということで、ダゲレオタイプのこの写真を掲載していることに大きな問題はないと判断しましたが、心穏やかではありません。とりあえず、写真のネット掲載許可を受けた領収書を探し、やっと見つけたので、代書人を煩わして、オルセー美術館に写真のタイトル変更理由、及び、タイトルを「画家ジャン・フランソワ・ミレーの弟と妹」とした理由等を問い合わせました。返事が届き次第、改めて訂正、追記等、書き換えをいたします。すぐに返事が届くと思えないので、とりあえず、RMNにより、下に掲載の写真のタイトルが変更されていることを報告しておきます。改めて、A・I氏にはお礼を申し上げます。こういう読者を得ることは、HP冥利に尽きる気がします。
 オルセー美術館に手紙を出してから、1ヶ月以上が過ぎました。返事がくるまで、明確な間違いをそのままにして置くわけには行かないと思いますので、以後はこの写真を「ミレーと妹エメリー」として訂正、追記いたします。当然、再度訂正する状況になりましたら、改めて、との約束通り、訂正いたしました。が、
 一応、「ミレーの弟と妹」と言うタイトルではなく、「ミレーと妹エメリー」とする理由を説明いたします。

先頭
フアルダン撮影ミレーと妹の銀板写真[7]
© Photo RMN

この写真は、たまたまインターネット上で、フランス国立美術館連盟の画像サイトで、「ミレーの写真」で検索して見つけたものです。オルセー美術館所蔵になっています。ミレー関係の文献には見出せなかったので、この写真を見るのは初めての人が多いと思います。

・前掲載のフランス国立図書館所蔵のフアルダン撮影の銀板写真も現在はオルセー美術館所蔵になっているようですが、両銀板写真を1850年頃撮影と記載していますが、画像に重点を置いて管理しているサイトのせいか、年代査定が杜撰に思えます。未詳としたのはそのためです。それはよいとして、ここで問題になるのは、インターネット上に公開されている画像を、このようにインターネットのホームページなどに使用して公開する場合はRMN及びオルセー美術館の許可が必要なのか?出典先を明記すればよいのか?ミレーの画集やカタログなどからスキャナーで取り込んだ画像などに対してはどうなのか?ご存知の方は教えてください。
 結局、この写真を管理している、フランス国立美術館連合の写真の取扱事務所に連絡し、あまり要領を得ませんでしたが、使用料を払うことにしました。しかし、古い写真の著作権に関しては問題があるように思います。著作権というよりも、所有権により画像の使用料を徴収すると考えたほうが分かりやすいのですが、はっきりしません。最近Webサイトが変わり、古い写真を新たに撮影した写真家の名前が消え、画像も重複していません。以前は同じ画像の複数の撮影者の画像が掲載されていました。


(2012年5月25日追記)重要な訂正で書いたように、いつの間にかタイトルが「ミレーの妹と弟」に変更されていました。1850年頃の撮影とすれば、このたび送っていただいた家系図からミレーの母親(1788−1853)はこの時62歳なので、ほぼ間違いなく、ミレーの母親ではないことになります。1850年頃の撮影とすればミレーは36歳で、年譜によれば、49年の6月にバルビゾンに行き、移転を決め、50年にはサンシエと契約し、51年の祖母の葬儀には参加しなかったということで、ノルマンディーでの写真撮影の可能性はすくないし、冒頭に記載してあるミレーの素描自画像は1845、6年で31歳か32歳。それと比較して、1850年の撮影とすれば、5、6年後ということで、素描との比較、1854年に撮影された家族との写真から、ミレーと考えられず、とすれば、ミレーの下のきょうだいということになり、「ミレーの弟と妹」というタイトルに落ち着いたのではないでしょうか?


このタイトル変更が腑に落ちないので、タイトル「ミレーの弟と妹」を検証しなおして見ます。その前に、私が使用許可を受けた写真につけられていたタイトルと現在のタイトルを掲載します。
RMNの写真解説/
  RMNの写真解説/
掲載の説明によると、ファルダンの活躍時期が1850年頃とあり、この写真も1850年頃と査定されています。(ナダールのミレーの肖像写真の撮影時期を写真に記載されたスタジオの住所から推定しているのと同様)その年代で該当すると思われる人物をミレー家の家系図から推測すると、ミレーの後4人は妹で、次男ジャン・オーギュスト25歳とすぐ上の4女アンリエット27歳が該当すると思われます。ただここで考えなければならないのは、だとすると、ノルマンディーの民族衣装を纏っている男女と言う意外、特別な意味のない銀板写真が残っている理由はどこにあるのでしょう。ガラスネガのところで、ガラスが高価なため、削られて再利用されたとありましたが、銀板写真は紙焼きされないため、銀板に定着された画像は消されなかったのか、再利用はなかったのか?とすれば猶のこと、意味の希薄な画像が撮影される理由がどこにあり、それが、フアルダンの撮影した銀板写真として保存されていた理由は何なのか。やはり、ガラスネガの修整が、明治維新で重要な役割を演じた龍馬の肖像だから残されていたガラスネガで確認されたように、シェルブールで書店員をしている時に知り合ったミレーを被写体にしたものだから残されていたと考える方が理にかなっていると思いますが、いかがでしょう。繰り返しになりますが、ミレーがそれなりに画家としてパリで活躍し、息子も彼の娘と結婚し、姻戚関係もできた彼を写した写真だから、フアルダンが保存していたと考えた方が、筋が通っていないでしょうか。その後代々ファルダン家が所持し、ファルダンの家系図によると長男がミレーの長女と結婚し、その子、つまりファルダンの孫である長男に子供がなく、次男は独身のまま、三男の娘デニーズが未婚のまま1984年に亡くなっています。前掲載の写真説明に、1984年に、このダゲレオタイプの写真と同じくダゲレオタイプのミレーと家族の写ったファルダン撮影の写真が美術館の所有になっています。(他のファルダン撮影のダゲレオタイプの写真が1983年取得になっていますが、それは1983年に閉鎖されたコダック写真博物館所有の写真が、コダック-パテ財団から寄贈になったのではないかと)これもオルセー美術館に問い合わせている事ですが(両銀板写真は寄贈ではないようです)、デニーズが相続した曽祖父の遺品を遺言で寄贈したので、1984年なのではないかと想像しました。ファルダン家は三男の下に娘が産まれ、その家系が続いていると記載されていますが、ひ孫に当たるデニーズのことがわざわざ記載されていることは、多分彼女がファルダンの遺品の相続人であったと思われます。繰り返しになりますが、このダゲレオタイプの写真が残されている理由を考えた時、ファルダンの長男が跡を継ぎ、父親フランソワ・ミレーとその妹で、フェリックス・ファルダンの妻になったマリーの伯母エメリーが写っているということで、大事に保管され、その家系に受け継がれてきたと考えるのが、常識的なことに思われます(オルセーの回答も、この常識的な伝承をそのまま記載したが、確証がないので訂正したと弁明しています2013/10/01)が、従って「ミレーの弟と妹」という無難な、でも意味が希薄なタイトルではなく、はっきり「ミレーと妹エメリー」と査定いたします。ただし、私見です。下にダゲレオタイプの画像を反転し、角度を変えたこの度の肖像と、カルジャ撮影のミレーの肖像(モロー−ネラトン1859-1927の著作の表紙に掲載されたもので、著作権は消滅しているものとして使用します)との比較を掲載しておきます。検討してみてください。まだ、撮影年代の問題が解決していませんが、それは以前にも検討してるので、それに譲ります。追記ここまで。追記を継続して、写真タイトル「ミレーと妹エメリー」の提案を撤回することを報告いたします。(2013年9月15日)


まず、年代査定を試みます。

ミレーはグリュシー村から画の勉強に1835年シェルブールに出て、その後、市の奨学金で1837年パリ留学ができ、奨学期間も終わり、肖像画でサロン展へ初入選したのを機にパリからシェルブールに帰ったのは1840年です。
ミレーがシェルブールへ出た当時、書店員をしていたので知り合った好奇心旺盛な友達フアルダンが1839年に技術公開されたダゲレオタイプの市販された写真機を使って、試みに帰省したばかりのミレーを母親(或いは妹)と共に撮影したのではないかと考え、1840年頃に撮影されたと年代査定をしてみました。前に掲載の1854年にフアルダンが撮影した家族の写真のミレーの顔と見比べると、明らかに年齢の差が見て取れ、1840〜41年に描かれたとされるミレーの油彩自画像[8]と比較した面影から、フアルダンがシェルブールで撮影したとすれば、結婚して、パリに発つ1841年11月以前と推定できるのではないでしょうか? 油彩自画像[8]には髪型やひげにも気を使うダンディーなミレーが見られます。

自画像26歳[8] フアルダン撮影ミレーと妹の銀板写真のミレーの顔拡大[9] ミレー自画像デッサン1845〜6年の顔拡大[1]
© Photo RMN
あるいは、若い妻が亡くなった後の1844年、二度目のパリからシェルブールへの帰郷の時にフアルダンによって撮影された銀板写真かもしれない。これがいま一つの推測し得る年代査定です。写真と1845〜6年の自画像[1]デッサンを見比べていると、どうも、1844年の帰郷時のような気がしてきました。その方が、ダゲレオタイプの写真機もそれなりに改良されていただろうし、フアルダンが写真を試みる時期としても適当に思われます。それに、哀愁を含んだ雰囲気も妻を亡くした様子が窺えます。が、気分転換にひげを剃り、すっきりし、新たな出発を心に誓っていたのかもしれません。当然そこには新たな伴侶、カトリーヌの姿があったのではないでしょうか?(空想しすぎです。タイトルの変更で、多少自暴自棄、やけくそという言葉の方が合っている?気味です)
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となると、当時のダゲレオタイプの露光時間がどのくらいだったか気になります。初期は2、30分かかったとか。そんなに長く動かずにいるのでは、肖像写真には不向きでしょうが、その後、レンズや感光材が改良されて、露光時間は1分ほどに短縮したということで、1844年頃ではそこまで短くなっていないでしょうが、耐えうる位には短縮され、フアルダンが親しいミレーに頼んで試みたのではないかと思われます。それでも、この写真からは、しばらく動かずにいる雰囲気が、充分に伝わってきます。写真史を調べると、初期には首の後ろや腰に添え木をして動かないようにする道具が使われていた様ですが、この写真にはそんな様子はなく、初期ほど長い露光時間ではなくなっていたと思われます。それからしても、技術公開1年後の1840年よりも、公開5年後の1844年の二度目の帰郷時の撮影の可能性が大きいでしょう。

【追記2】ミレーと妹の銀板写真の年代査定 2006/04/05 2012/05/25に母親を妹に変更 2013/09/15に訂正追記


【重要な比較】 たまたまカルジャ撮影のミレーの肖像写真を見つけ、しばらく見ていて、眉毛や鼻つき、下唇の出方から、銀板写真の若者と似ているのではないかと思い始めました。同じ大きさ、同じ顔の傾きにして(銀板写真の画像は反転させて)比較しました。結果を見てください。

銀板画像とカルジャ写のミレー比較
© Photo RMN


この二葉の肖像写真の比較はどうでしょうか? 右はミレーと確認されています。この若者との顔の輪郭、こめかみ、眉毛、鼻、口、耳たぶの位置から、私見として、銀板写真に写っているのはミレーだと思いますが、ミレーとすれば、女性はすぐ下の妹エメリーということになり、タイトルを「ミレーと妹エメリー」に変えたわけです。あくまで個人的な見解なので、フランスの国立美術館連合のような公の見解ではないことをお断りしておきます。また、きょうだいは同じDNAを所有しているので当然、顔が似ます。従って、この比較からの判断を絶対なものとは思いませんが、撮影者フアルダンとの関係を考えると、妻を亡くしパリから帰郷したミレーを励ますために、見合い写真の意味合いも込めて撮影したのではないでしょうか。(大デュマが女優と一緒の写真をブロマイドとして売った等、発明されてすぐに現代と同じ着想で写真の利用法を考えていたことからの想像) カトリーヌと結婚した時もフアルダンは家族とミレー個人の写真を結婚記念として撮影しています。(カイユ女史の記述より)  写真の黎明期に、奇跡とも思えるダゲレオタイプによる肖像が残されているには撮影者との個人的つながりが無視できないと思えるので、以上の結論を出したわけです。読者の方はどう思われますか。

 結局、最初の「ミレーと母親」のタイトルを引きずって、フアルダンとのシェルブールでの出会いから、最後まで、ミレーの若い時の肖像写真であるとの思いを捨てきれず、ずいぶん長い寄り道をしました。この部分を全て削除した方がすっきりすると思いますが、どんなものでしょう。  

● 以下も、本来、消去すべきでしょう。

ミレーはパリ留学からシェルブールに戻った後、肖像画家として活躍しますが、亡くなった市長の肖像画を依頼され、完成後、似ていないとして、受け取り拒否などがあり、地方の美術界と決別すべく、結婚後再びパリへ。しかし、2年半の貧しい生活で病弱な新妻を結核で失い、シェルブールに戻りますが、1年も経たず、結婚もせずに、家政婦をしていたカトリーヌと手に手を取り、シェルブールより大きいセーヌ河口の港町ル・アーブルへ、そこから三度目のパリへ逃避行。これは一般的に「駆け落ち」と呼ばれる行為ではないでしょうか?それは1845年の暮れでした。最初に掲載の自画像デッサン[1]はこの頃に制作されたものです。その後、子供が次々に生まれ、その厳しい生活の中、パリにコレラが蔓延した事と、後に疎遠になったジャックのお蔭で二月革命による新政府からの画の注文を受け、資金ができたのでジャックと共にバルビゾンへの移転を決行したのが1849年の春。1863年までに9人の子供が生まれています。
 つまり、郷里の町シェルブールに戻った若いミレーの顔には対外的に虚勢を張るミレー(ナダール撮影の肖像写真)の顔とは違った、意志の強さを表した地のままのミレーが見て取れます。

○ 改めて写真を並べてみると、美術界で虚勢を張って生きているミレーより、郷里に戻った篤農家の長男である若いミレーの肖像写真の方が、月千フラン(毎月35万円以上の定収入)で貧乏から解放され、浮世絵の収集ができるほど豊かになった新発見の肖像写真に共通な雰囲気があると思うのは、まったくの手前味噌でしょうか?


フアルダン撮影ミレーと妹の銀板写真のミレーの顔拡大 新発見の写真顔拡大 フアルダン撮影ミレー銀板肖像写真の顔拡大[10]
© Photo RMN
【注】 左側と右側の写真はフアルダン撮影のダゲレオタイプの銀板写真で、反転画像であり、正確な比較になりません。しかし、雰囲気云々には有効でしょう。


--------------------------   ここまで、消去 可。 ------------------------
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次に、新発見の肖像写真と1854年撮影のミレーの肖像写真(右端)との「額の生え際の形の違い」を検討しますが、新発見の肖像写真は帽子を脱いだ直後と思われ、後頭部が帽子の形になり、額の部分の短い髪がねているので額の形が違って見えると思われ、決定的な問題ではないと思います。反転画像との比較なので、参考程度にしてください。

新発見の写真の生え際     フアルダン撮影の銀板写真生え際[11]
© Photo RMN


ついでに、耳を比較すると、残念ながら、わずかな角度の違いで同じ形には見えず(帽子で耳が押されていたせいか?)、耳の形がそっくりなので間違いなく同一人物だとも、まったく形が違うので別人であるとも判定できません。左と右の耳の比較で意味がありません。

新発見の人物の耳  フアルダンのミレーの耳[12]
© Photo RMN


○ 思いつきで、妹の肖像写真と新発見の肖像写真を並べて見ました。
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フアルダン撮影のミレーと妹の銀板写真の妹の顔拡大 新発見の人物顔拡大[13]
© Photo RMN

二人の顔にノルマンディー人の特徴以上の共通性を感じます。目や鼻つきがそっくりで、非常によく似ていると思いますが、贔屓目でしょうか?妹の画像が反転していても、比較は有効でしょう。

○ 次に帽子を手に持ち、杖を手にした、今回発見の正装した写真とは違った、バルビゾンで木靴を履いた日常生活の姿ながら、同様に杖と帽子を持った、1862年キュヴェリエ撮影の写真との比較を提示しておきます。特にに注目してください。拡大提示しておきます。

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新発見の人物の全身像[14] キュヴェリエ撮影のバルビゾンのミレー[15] 新発見の写真の杖拡大 キュヴェリエ撮影写真の杖拡大[16]

この中央の写真「バルビゾンのミレー」を撮ったキュヴェリエは画家でもあり、コローを立会人に、ルソー、ミレーらバルビゾンの画家を招いて、旅籠屋ガンヌの娘ルイーズと結婚式を挙げました。彼ほどバルビゾンに近しくなくても、多くの写真家がフォンテーヌブローの森を訪れ、写真を撮っていたとのこと、その中に今回発見したような画家たちを写した写真がもっとあってもおかしくないと思いますが、あまり世に出ていないようです。第一次、第二次両世界大戦争を経て、寒村バルビゾンもそれなりの変遷の中で、少なからぬものが失われたと思います。グリュシー村のミレーの生家は第二次世界戦争の爆撃で瓦礫に化したとか、現在の生家として公開されている建物は最近再建されたものです。しかし、いろいろな世の中の出来事を乗り越えて、こうして偶然に日の目を見るものも中にはある訳です。出所不明で、誰が撮影したかわからず、履歴が判明しないため、確実性に欠けますが、今回の写真が上記の検証で新発見のミレーである可能性を認めて頂けたら大変うれしく思います。キュヴェリエ撮影のミレーの写真に関して、どの本からコピーしたか分からなくなり、キュヴェリエに関するWebサイトを開いているフランス写真協会の事務所に足を運びましたが、ミレーの肖像写真は所有していないとのことでした。従って、「昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。→写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。」(インターネットの「写真の著作権について」より)に該当すると言うことと、営利目的ではないこと、比較検討に不可欠の画像であることを考慮いただき、無許可で掲載させていただきます。しかし、権利所有者よりご連絡頂ければ、速やかに対処いたします。
 【追記2006/9/6】 この写真をサンシエが「真のミレーの姿」であるとミレーの伝記に書ていました。しかもこの写真は友人の一人がバルビゾンで撮影したとあるので、E・キュヴェリエ(1837−1900)の父親A・キュヴェリエ(1812−1871)と考えた方がサンシエ(1815−1877)と年代的に合うと思いますが、微妙な問題です。Webサイトで見つけた写真の解説では撮影者はキュヴェリエとあり、ユージェンヌ・キュヴェリエ(息子)或いはアダルベール・キュヴェリエ(父親)と注釈されています。ちなみに、父親はアラス(北フランス、パ・ド・カレ県)の油屋(油を扱う商人とあり、製油業者か単なる油販売業者か、明確ではありません。ただ、かなり裕福であったであろう事は想像に難くありません)で写真愛好家、つまり地方の芸術愛好家で、コローの親睦会をつくり、コローの画の収集をしている事からコローと懇意になり、バルビゾンにも足を運び、息子はデュティーユゥ(Dutilleuxアルファベット表記に自信がありません)に師事したとあり、クリシェ=ヴェール(ガラス面を写真ネガのように使った版画法。父キュヴァリエが用いた版画技法で、コローなどが作品を残していると記述されています)を直接コローに手ほどきしたのは父親のキュヴェリエなのか、息子なのかも確認できませんが、コローが息子の結婚の立会人になっているので、父子ともどもコローとは親密な交流があったのは間違いない事でしょう。


追記】 銀板写真のイメージが反転したものである事をダゲレオタイプの写真に付いて調べている記事の中で知りました。写真機の原理を考えればその通りでしたが、あまりにネガ、ポジ法が一般で、それを直ぐにこの査定に結び付けて考えられませんでしたが、気付いた以上修整する必要があるでしょう。以下に銀板写真の左右を変換させた修整写真と、左右を転換する必要のない「写真」の人物の比較を掲載して置きます。

1854年のミレーの肖像写真の反転像 「写真」の人物 唯一のミレーの妹の肖像写真の反転像
© Photo RMN
誤認】に戻る
修整を前に戻ってすべきか考えましたが、一応まとめた後なので、追記で掲載する事にしました。
 反転させた画像を改めて検討すると、目の大きさが気になります。わざと目をむいて写真に写ろうとしたのか? それにしては、妹の目も大きく写っているので、ミレーがわざと目をむいたとの解釈もほどほどですが、今一つ、フアルダンが、瞬きをしないように言ったので、目に力を入れて見開いていたと言う解釈は成り立つでしょうか? それとは反対に、「写真」の人物は画家仲間とのくつろいだ雰囲気の中で、微笑みと共に目を細めたので、目の大きさにかなりの差が現れてしまったとの解釈で、何処まで納得してもらえるか? 

銀板写真の画像が反転している事に気付かず、比較、査定をしたので、最後に詰の甘さを露呈してしまいました。しかし、そのお蔭で、別の検証結果を得られました。以下に示します。

銀板写真の反転画像を云々していて、銀板画像の肖像は鏡に写った顔と同じと考えると、画家の自画像も鏡に写った自分の顔を描いているので、反転画像の肖像と同じことになります。となれば、ミレーの自画像デッサンも、反転させて比較する方が正しいことになります。すこしややっこしくなりました。

ミレー自画像デッサン1845〜6年の顔拡大 自画像デッサンの反転画像  「写真」の人物
自画像デッサン  自画像デッサンを反転させ、サイズ調整                 .

鼻の形などそっくりで、意外な結果になりました。目の向き、目付きが違うだけで、眉毛の形、上がり具合、口の雰囲気、かなり似ているのに驚きました。この方が写真との比較よりもミレーの査定には良好な結果をもたらすように思われます。この二つの画像を重ね合わせて見るような方法はないものでしょうか?

自画像デッサン反転画像
自画像デッサン反転画像
.
重ね画像
左寄りに重ねました。
重ね画像
右寄りに重ねました。
写真の人物
「写真」の人物
何とかPhotoshopを使って、段階的な重ね画像をつくりました。眉毛、鼻、口がほぼ重なっています。目に関しては、見開いた目と、細めた目では、当然、重なりませんが、目の幅が同じ様です。何かもっとはっきりした結果が得られる方法、眉毛と目の間隔、目と目の間隔、鼻の長さ、鼻の下から口までの長さなどを、数値で出す判定をすべきでしょうか?写真とデッサンでそれが可能でしょうか?写真と写真ですべきでしょう。それを科学的判定と言うのでしょうか? ナダール撮影のミレーの肖像写真とあまりに表情が違うので、数値による比較など考えませんでしたが、やり方によっては可能かもしれません。最終的に専門の鑑定家に依頼することになるのでしょうか。その前に、足と勘で探し当てた査定の成果を見ていただきます。

最後にかなり有効な検証ができました。これにより、この「写真」の人物が新発見のミレーである可能性が認められ、続く人物査定に興味を持って頂けたら大変うれしく思います。なお、このたびA・I氏より貴重な情報をいただき、一部書き換えができました。150年ほど昔のことを、残された資料で調べ、査定する作業は容易ではありません。断定できないことが多く、推測で物語を創ることがままあります。研究者としては失格でしょうが、例えば、今回の「ミレーと母親」というタイトルが「ミレーの弟と妹」と変更されたことは、確実にありえない部分を変更し、かも知れない曖昧な推測「ミレーと妹」を避けて、推定される撮影年代を基に無難な選択をしているように思います。裏書などがない限り、絶対的な断定はできないのだから、この「ミレーの弟と妹」というタイトルを完全否定はできません。見方を変えれば、「ミレーと妹エメリー」の方が安易な書き換えとも取れますが、RMNもミレーにこだわるところを見ると、この銀板写真がフアルダンが撮影したものに間違いがないからでしょう。従ってそれに基づいて、検証を試みたつもりです。今後も、新たな資料が出てくるたびに検証しなおし、なるべく事実に近づきたいと思っています。
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[1]ミレーの自画像デッサン [2]新発見の写真  [3]ナダールの写真  [4]ファルダンの銀板写真  [5]ファルダンとナダールの写真比較  [6]修整問題  [7]ミレーと母  [8]26歳のミレーの油彩自画像  [9]若いミレーの肖像写真  [10]三葉の写真の比較  [11]生え際の比較 [12]耳の比較 [13]ミレーの母と新発見の写真 [14]新発見の全身像  [15]1862年キュバリエ撮影のミレー  [16]杖の拡大

著作権について 著作権に関しては充分配慮していますが、万が一著作権に抵触する場合、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を如何に査定したかを物語ったもので、どうしても画像による説明が必要になります。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解をいただき、掲載許可をいただけたら幸いです。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮をいただき、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

ご意見、ご感想をメールでお寄せください。この肖像写真がミレーと認められた段階で、写真に写っている全員の査定物語を開始しようと考えています。enomoto.yoshio@orange.fr