ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る
ナダールについて
ナダールは1820年パリのサント・ノーレ通りで生まれています。父親はリヨンから出てきて書店兼出版社を営んでいました。若いときは学校を幾つもかわったといいます。現在、サン・ラザール駅近くにある、有名なリセ、コンドルセ校にも学んだとあり、サン・ルイ・ダンタン教会の正面横に立てられたパリの歴史板コンドルセ校の説明に名が載っています。
1863年父親が病気になり、リヨンに戻りますが、翌年父親は亡くなり、母親と弟を抱え医学の道を目指しますが、1839年パリに戻り、ビセットル病院で7ヶ月学んだ後、経済的理由で医学の道を断念します。多分これらのことは、後にナダールが書いた「私が学生だった時」と「私が写真家だった時」によると思います。「私が写真家だった時」は最近復刻版が出ていますが、前著は原稿が国立図書館にあるとか、出版されなかったようです。
後廻しになりましたが、ナダールは俗に言うペンネームです。本名はガスパー=フェリックス・トゥールナションです。学生や芸術家の間で、ジャワ語のダールを語尾に付けるのが流行り、トゥールナダールがちぢまりナダール
(1) になったとかです。
蓮實重彦氏が「凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論」(1988年青土社刊、1995年ちくま学芸文庫刊)の中でナダールに付いて「コミックな絵入り新聞の創刊に腐心するかと思えば、ロシアのポーランド進攻にいきどおる博愛的な『芸術家』の一人として遥か東欧まで足をはこび、危険人物としてドイツの牢獄につながれもするという、これまた存在理由の希薄な素人そのものとして振舞っていた。そうした曖昧な風土の中で肖像写真家としての自分を発見して流行の先端に位置し、何度もの経済的破綻を経験しながらも、印象派の影の後援者となり、やがて軽気球乗りへと変貌してゆく写真家」と書いている事に尽きると思うので、そのまま掲載させて頂きました。専門家に聞いたところ、文章に関しては出典を明記すればよいとかですので、蓮實氏に無断です。しかし、インターネット上ではどうかわかりませんので、問題がありましたら連絡下さい。
ちなみにマキシム・デュ・カンは発明されて間のないカロタイプの写真機と感光・現像機材一式を持って、友達フローベールを連れて中近東の旅に出て写真集「エジプト・ヌビア・パレスチア・シリア」を1852年に刊行しています。オルセー美術館の十九世紀の写真部門に彼の写真が展示されています。
ナダールに戻りますが、戯画家としてモネが模写
(2) を残しているほど当時有名で、一斉を風靡したパンテオン・ナダール
(3) で著名人をカリカチュールで描き、その延長線上に当時発明されたばかりの写真機で著名人
(4) の肖像写真を撮り、肖像写真家としても名を成し、(肖像写真でかなり荒稼ぎをしたのではないかと、下司の勘繰りをしてしまいますが)、人工の光で初めて写真
(5) を撮ったり、気球で初めての航空写真
(6) を撮ったり、その延長線上で、巨大気球
(7) を造り、入場料を取って飛び立つところを見せたり、その気球をロンドンの万国博覧会で展示したり、その破天荒な冒険家ぶりは桁外れです。ジュール・ヴェルヌの「気球」を扱った小説はナダールがモデルということです。パリ・コミューンの時、ガンベッタらのパリ脱出に彼の気球が活躍したことも特筆してよいでしょう。
その上、最初の印象派の展覧会がナダールの写真スタジオを借りて開催されたことは、印象派の文献には必ず記載されていることですが、その建物
(8) が現存することはあまり知られていません。又、印象派にスタジオを貸している間ナダールはどうしていたかと思い調べると、意外な事がわかりました。カプチーヌ通りのスタジオは元々写真家のアトリエだったのが空いたので、高い家賃にもかかわらず、賃貸契約を交わし、大改造をし、現在で言うネオンサインのはしり、真っ赤な大きなナダールの文字を建物前面に掲げ、内側からガス灯で夜に煌々と明かりをともしたということです。開店には名士が続々訪れ、当時ナポレオン三世により禁じられていた現国歌「マルセイエーズ」がオッヘンバックによって演奏されたということですが、その後、病気になり、家賃が高額なため維持できず、写真スタジオは他に移しますが、賃貸契約期間が残っていたので又貸しをしていたようで、たまたま空いていた時期に印象派の画家の展覧会に貸したというのが真相のようです。仮定形で書くのは、いくつかの文献を読み合わせると、そうなりますが、誰もそれを言明していないので、断定を避けました。ナダールの生涯は浮き沈みの多い波乱万丈の人生だったようです。その原因はボードレールの母親と同様な秘められた父親との関係を、彼が生まれたときの父親の年齢から推測しましたが、これもまた断定できるほど、ナダールを研究していないので、機会があったらと言うことにします。
その後は奥さんに写真スタジオを任せ、若い女性と放浪し、その後出戻り、息子が一人前の写真家になっていたので、マルセイユに帰り、改めてナダール写真スタジオを開きます。
1900年パリ万国博覧会で回顧展が開催され、それを機にパリに戻り、1910年パリで亡くなり、ペーラ・シェーズ墓地に葬られました
(9)。