ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る

【追記】



― 追記 1 ナダールの修整について ―

 ナダールの修整についての記述を「社会と写真」(ジゼル・フロイント著 佐復秀樹訳 御茶ノ水書房刊)に見つけたので追記します。

 『顔をめちゃめちゃにしてしまい、それを干からびた生命のないものとしてしまう修整は、彼の最後期の作品のみ現れるのである。』(「社会と写真」P53) 彼とはナダールのことで、『彼の写真館に写真を撮ってもらいに来た芸術家たちは、友人としてやって来たのであって、客として来たのではなかったのだ。』(同上、P56) 『真の芸術作品がそうであるように、彼の写真もまた物質的な理由で作られたのではなかった。職業的良心、てらいのなさ、知的・文化的に力強い背景を持っていたことなどが初期の写真家たちを芸術家たらしめたのである。』(同上、P56)と続きますが、芸術家たちは顧客ではなく、従って、顧客の好みに合わせる必要がないので、顔をきれいに修整して顧客からお金を取る肖像写真家のような行為をする必要がなかったと言う記述で、確かにナダールの文化人達の肖像写真を前記のような意味で修整したとは思いませんが、そのことを強調する為に、初期の作品には全く修整を施さなかったと言う印象を与える表現になってしまっていることには賛成しかねます
 何故なら、当時の写真の技術水準から修整は現像前に行う必須事項だった筈だからです。そして、芸術家なら尚の事、自分の撮った写真をより明瞭なものにする為の修整をするのは、芸術家の良心ではないでしょうか。例えば、現像の時に出来てしまったネガの傷やちょっとした失敗、顔を鮮明に見せる為の背景の修整、或いはネガの風化などの修整はしたのではないか思われます。
 それは、ナダールの写真集などにより、多分現像時期の違うミレーの肖像写真を数葉見比べれば確認できます(このホームページ8章のミレーの目の比較を参照)。
 しかも、前記のフロイント氏の記述が、果たして、残されたナダールのガラスネガを調べての記述かどうか?つまり、きちんと修整の有無を確認しての記述かどうか? 単に、いかにも修整された事がわかる紙焼きされたポジ写真を見て、最後期のみに修正が行われたと述べているのではないかと疑います。
 「写真と社会」のまえがきに『一九世紀の写真史を扱った部分は、もともとはソルボンヌに提出した私の博士論文である。』とあるので思い付きの好い加減な記述とは思いませんが、ガラスネガを調べて確認したとはありません。つまり、フロイント氏にとって、修整とは干からびた生命のないものにするもので、写真画像を鮮明にしたり、傷、風化を直す為の修整を無視しているように思います。
 加えて『一八五五年のパリ産業博覧会で、はじめて修整された写真が展示された。写真の修整をはじめておこなったミュンヘン出身の写真家ハンブッステングルは、元の写真と、修整された写真の両方を並べて、人々をあっと言わせたのである。修整は、以後の写真に重大な役割を果たすことになるし、また、写真の芸術としての零落を早めることにもなった。修整の濫用は、写真からその最も基本的な価値、忠実な複写であるという性格を剥ぎとってしまったのである。』(同上、P82〜P84)
 となると1855年にはじめて修整が公表された記事は興味深く、それを見たナダールが影響を受け、直ぐに、1855〜60年に撮られたミレーの肖像写真に試みに修整を施した(上記した髪の乱れを直した時、耳の形を変えてしまった事の)可能性がより高くなる記述と受け取れます。
 また、公表された修整が、かなり大胆に原板ネガに手を加えたものである事が想像できます。
 修整はダゲレオタイプの銀板写真(ポジ画像のみ)では考えられず、コロディオン湿板写真ガラスネガから印画紙に焼き付けるようになったので可能になり、ガラスネガに多かれ少なかれ修整がおこなわれたであろうことは、竜馬の記事のところにもあるように、「紙に焼く際仕上がりを鮮明にするのに、一般的な方法であった。」という程度にナダールの写真に於いてもおこなわれていたとした方が自然で、フロイント氏のように、修整(の濫用)を写真の堕落の元凶のように考え、それゆえに、ナダールは(顧客におもねる)修整を最後期の作品にしかおこなわなかったという記述は、修整=芸術性の喪失と言う修整の弊害のみに焦点を当て、初期には現像する際にそれなりの必然もあったネガの修整に付いては無視しているように思えます。
 ここまで来ると、フロイント氏の使用している修整という言葉の意味の問題になりますが、修整と修復の違いを考えるべきかもしれません。つまりフロイント氏は元に戻す修復的な修整と元の画像を別な形に変えてしまう修整を区別し、後記の意味のみに使っているのでしょう。
 しかし、どんな形であれ、写真ネガに手を加える事を修整と称していると思いますが、違うでしょうか?
 もし、フロイント氏の記述が、ナダールの写真ネガを調べた上で初期の写真に修整がないというのであれば、それは、とりもなおさず、何故ミレーの肖像写真の原板ガラスネガだけが存在しないかの明瞭な答えとなります。従って、ナダール撮影のミレーの肖像写真に関しては「ナダールは初期の写真には修整を施さなかった」と取れるフロイント氏の記述に反して、修整された可能性がますます強くなったと結論付けます。
 「修整は、彼の最後期の作品のみに現れるのである。」と言う、初期のナダールの写真は修整されてないと断定する様な記述に出会ったので、かなり理屈っぽく反論することになりました。
 尚、引用した「写真と社会」の文章は一部で、当然、都合の良い文章の切り取り方をしていますが、著者の論旨をねじ曲げた引用はしていないと思います。写真に関心のある未読の方には一読をお勧めします。唯、絶版なので、図書館で借りて読みました。

 今回新たに明瞭になったことは、フロイント氏の記述に、「ナダールは初期の作品に元の画像を別な形に変えてしまう修整はしていない。」とあり、「その手の修整は1855年の第一回目のパリ万国博覧会で初めて開催された写真展で発表され」ということで、1855年のパリ万国博覧会の文献を調べ直し、「ナダールは修整を最も重視した。(Nadar accorde la plus grande importance a la retouch)」という文章を見つけました。従って、1855年のこの時点でナダールが「修正」を試みない筈はないと思います。そして、ナダール撮影のミレーの肖像写真が1855〜60年、(1854年撮影のフアルダンの銀板写真のミレーの肖像を参照すれば)1855年に近い年代に撮影したと考えると、ミレーの肖像写真には耳が変形する修整がなさた可能性がかなり高くなると思われます。そして、その原板ガラスネガだけが、初期のナダール作品の中で失われていることを付け加えて、ナダール撮影のミレーの肖像写真の修整の有無を考えてみてください。
 何れにしろ、原板ネガが存在しないので、証明は不可能な事で、すべて推測するしかありませんが、ミレーの肖像写真の原板ネガは1855年のパリ万国博覧会で発表された修正写真を見たナダールが修整の試みをしたために何らかの影響を受け、風化が進み、破棄することになってしまったと推理すると今までの話がうまく納まる気がします。いかがでしょうか。

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