ファルダンについて
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


━  フアルダンについて  ━


フェリックス・フアルダンについてはあまり知られていないようです。

図書館でベネディット美術家事典を調べても、載ってなく、人名事典にも記載はありません。

フアルダン撮影のミレーの銀板写真が国立美術館連合の画像サイトにあるので、フアルダンの写真で検索すると24点の写真が掲載されています(オリジナルは15点のようです)。しかし、フアルダンの個人情報はなく、写真はダゲレオタイプで、タイトルがつき、サイズは記名されたり、されてなかったり、19世紀と記述されるだけのもの、1850年とされるもので、写真の履歴など詳細はわからず、最後にダゲレオタイプの銀板写真を普通の写真画像に写し替えている写真家の名が記されています。(その画像の著作権はその人になるのでしょうか?)しかし、写真事典にフアルダンの名はなく、写真の歴史の文献にも見当たりません。(画像サイトの様式が変わりました。28のイメージになり、写真に関する記載も変わりました。いろいろ試行錯誤しているのでしょう。フアルダンの名前は Felix FEUARDENT です。)

「ミレー心の旅」展(メルシャン軽井沢美術館、2001年7月〜11月)のカタログの論文「ミレーの時代のシェルブール」(P139、ブリュノ・サントム著、野口さわこ訳)
 フェリックス・ビアンネメ・フアルダン(1819−1907)は、その頃、書店で見習いとして質素に働き始め、愛読家のミレーと親交を結んだ。その息子のひとりは、のちに画家の娘のマリ・ロザリー・ミレーと結婚する。フアルダンは首都パリに出て、国際的に著名なメダル・古銭学の研究家となるが、やがて写真術に打ち込み、その才能を表わし、1854年に撮影した見事な銀版写真を残している。これは芸術作品であるばかりではなく、ミレーやその妻子を撮影したきわめて貴重な資料であり、現在オルセー美術館に所蔵されている。  とあるの見つけました。

「国際的に著名な」とあり、「銀版写真は芸術作品であるだけでなく貴重な資料である」との記述を繰り返し眺めているうち、何となく腑に落ちないものを感じ、もう少し詳しい情報はないかと探しましたが、図書館では見つからず、それではとインターネットでヤフー・フランスに当たると、古書目録にフェリックス・フアルダンの名があり、パリ「ロリンとフアルダン」骨董店が古代ギリシャの都市と王のメダルカタログ三巻(1862年、1863年、1864年刊)を出版した、そのカタログが古書として売りに出ていました。200ヨーロ(約2万7千円)です。フアルダンは十九世紀におけるメダルと古物の第一人者であったとあり、メダル・古銭学に関してはこれで充分ですが、何故書店員であったフアルダンが古銭学の権威になったのかがわかりません。あきらめかけましたが、もしやと思い、ゴーグル・フランスで検索すると、古書一覧にフェリックス・フアルダンについての4ページの雑誌の抜粋を見つけました。

「古銭学誌」のフアルダン追悼記事の抜粋です。

 ○ 結局、追悼記事なので、賛美した記述が多く、必要な部分だけを紹介します。

四分の三世紀に渡り、メダルと骨董の商業界で最高の権威を保ち、世界的に評価を受けた、フェリックス・フアルダン氏がパリで1907年8月11日に亡くなりました。1819年4月26日シェルブールで生まれ、88歳でした。(ミレーより32年長生きしたことになり、ミレーが評価されたのを十分知っていたわけです。)

1860年から「カミーユ・ロリン」ひとりの名から「C・ロリンとフアルダン、出版者」と替え、選集を定期刊行し、フアルダンのお蔭で「古銭学誌」が業界誌として第一の地位を確保し続けた。(ということは、この年位に、パリに出て、中央の古銭学界に活躍をし始めたのではないかと想像できます。ミレーが個人契約ができ、生活が安定する時期と同じです。)

続いて、フアルダンがいかに古銭学界、考古学界、骨董業界に貢献したかが語られますが割愛します。(ここで少し批判的になりますが、彼は科学的分析と経験によってすばやい判断ができたということで、学者としてよりも、定期刊行誌を通じて、古銭学の認識を高め、尚且つ物を流通させることで、つまり商業界での権威になっていったようで、多分そのために人名辞典などに名が載ってないのではないかと思います。学界において新たな発見、分類、意義などに業績を残し、世界的権威になったとあれば、当然、辞典に載ると思われます。)



彼の古銭学への興味はかなり若い時期から芽生えましたが、当時はそれ程メダル業界の流通はありませんでした。彼はシェルブールの書店の店員として出発しました。偶然、ローマ時代のメダルを手にし、その後、暇な時の気晴らしに、小さな地方的発見などを通して、目録を作るのを楽しみにしました。そういうわけで、若い書店員は一人で少しづづ見る目を養い、歴史と考古学の辞書を片手に一点一点分類し続け、そんな彼を知り、生まれかけの専門知識を励ましている人々は、ド・モアネ氏のカタログのいくつかを手に入れるその日まで、それぞれの機会に彼に相談し始めました。彼が手引を得、各個物の安心と年代とを説明できるようになった時以降、ノルマンディーにもいた収集家から彼は引っ張りだこになりました。その収集家の一人、ド・ジェルヴィル氏はド・コウモン氏の豊かな発想の下にシェルブールとサン・ローの周辺で発見されたローマ時代と中世の古物とメダルに関する質問などを勇気を持って議論し、彼のメダルの目録作りを手伝い、充実させるのに貢献し、磨き上げ、判読する勤勉な若者を保護下に置きました。1854年、死の床でド・ジェルヴィル氏はメダルと骨董の収集をフェリックス・フアルダンに遺贈し、彼は質素な店員から書店主兼印刷業者になりました。ジェルヴィル・コレクションの目録がフアルダン氏が草起し印刷した古銭学の最初の書籍で、旧マンシュ県議会議員、学士院の通信会員で準会員、その他、の肩書きを持つド・ジェルヴィル氏の収集品のほとんど全てに由来する、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、フランス、領主時代、中世、近代外国のメダルのとても素晴らしい多数からなるコレクションの目録、シェルブールの書店主兼印刷者、フアルダン作成。シェルブール、フアルダン、書店、印刷、出版、1854年。これがその書名です。
〈 ひどい訳ですが、重要な部分と思われるので、そのまま掲載しました 〉



この後に、現在もメダル陳列室に保存されている、ド・ジェルヴィル氏の石膏で型取りしたコレクションはフアルダンが寄贈したことが記され、古銭学に対する共通の趣味がパリの主要人物で商人のカミーユ・ロリン氏をひき合せ、最後まで炯眼と専門知識は衰えることなく共同経営者として事業を拡張し続けたとあり、業績を讃え、出版したカタログが列記されていますが割愛。
 
抜粋記事終了 ━


○ 以上の記載でミレーとの関係を再考してみます。

何年からか明確ではありませんが、書店員以外に、趣味の分野で評価を得、それなりに収入もあったのではないかと思われます。つまり、1840年代にダゲレオタイプの写真機を取り扱うにはかなり費用が掛かり、一介の店員がいくら好奇心があってもたやすく扱えたとは思えませんでしたが、これで事情がわかりました。

1854年にド・ジェルヴィル氏 (ド・が付くので貴族階級と思われます) より収集品の遺贈を受け、その時、書店主兼印刷業者になれる幸運に恵まれたことが、この記事でわかります。

ちょうどこの年に、ミレーは家族を引き連れてシェルブールで夏の4ヶ月を過ごしています。想像に過ぎませんが、フアルダンがミレー一家を銀板写真に残していることなどを考えると、ミレーは先年母親が亡くなったことで郷里に帰っているので、その時にフアルダンとの旧交を新たにし、フアルダンからの誘いもあり、妻と子供たちのために里帰りを決めたのかも知れません。

1856年4月30日に1850年生まれの三女マルゲリットの洗礼の代親をバルビゾンでフアルダン夫妻がつとめています。と言う事は、ミレー家との交流がかなり緊密になっている事が窺がえます。一つにはフアルダンがシェルブールからパリに出てくるようになったのではないかと思われます。

1860年にフアルダンはパリに拠点ができ、この年はミレーの方も、月千フランの契約が成立し、経済的に安定しました。

そして、1870年8月普仏戦争を避けて、シェルブールに疎開、フアルダンの家に身を寄せたとありますが、パリに拠点を移していたフアルダンがミレーを誘って一緒に疎開したとは考えられないでしょうか? パリ・コミューンに続く混乱で、滞在が長引きそうなので、ロンドンに画廊を構えたデュラン・リュエルに画を買ってくれるように頼み、何とか家を借りる資金を得ています。そして、1871年にフアルダンの息子と、ミレーの長女が結婚し、ミレー家とフアルダン家は親戚になるわけですが、ミレーとフアルダンのそれぞれの変化の時期に繋がりがあるのは、偶然とは思えない関係を感じます。

最後に、追悼記事には彼の写真について何も触れていないことから推測すると、サントム氏の論文にある「フアルダンは首都パリに出て、国際的に著名なメダル・古銭学の研究家となるが、やがて写真術に打ち込み、その才能を表わし」の部分をどう読んだらよいのか? オルセー美術館に残されている写真は銀板写真だけで、それ以外の写真はありません。(【追記】2006/04/24オルセー美術館ではなくルーブル美術館に1873年にフアルダンが撮影したミレーの椅子に腰掛けた写真が保存されていました。服装から判断して、反転画像ではないので、年代から野外撮影に適した臭化ゼラチン乾板写真ではないかと思われます。従って、次に記す疑問は、フアルダンはダゲレオタイプ以後も間違いなく、趣味の写真を撮り続けたことになります。4章の【追記】の時にも、別のカタログでもフアルダン撮影の最晩年のミレーを見、少し気になっていましたが、この項を読み返すまで、フアルダンが写真を撮り続けていた証拠があったのに結び付けられなかったことを反省します。フアルダンの写したミレーの家族とミレーの国立図書館保管の銀板写真がオルセー美術館に保管場所が移ったことで、オルセー美術館の写真資料ばかりに目が行ってしまい、ルーブル美術館所有の写真に注意を怠りました。今回、ルーブル美術館保管の「ミレーの家」と「ミレーの晩年」の写真が新たなミレーの資料として、かなり貴重な事実を教えてくれました。)1907年迄生き、1871年にミレー家と親戚になっている彼が、他に写真を残していないのでしょうか? 未公開の写真が存在するのでしょうか? ミレーの肖像と、銀板写真という希少価値で国立図書館に保存されましたが、他の写真は散逸してしまったか、まだ整理されていないのかもしれません。しかし、サントム氏の記述が追悼文以上の情報を含んでいないことからも、フアルダンの生涯はそれ程調べられていないようです。
 フアルダンの銀板写真画像を掲載しようと思いましたが、ミレーの本ページに掲載してあるので、重複を避けました。フランス国立美術館連合の画像サイトでフアルダンの銀板写真が見られます。興味があれば見てください。

Webアドレスは http ://www.photo.rmn.fr で、名前のスペルは FEUARDENT です。