「写真と社会」ジゼル・フロイント著 佐復秀樹訳 P40 に「写真が一般に公開された一八三九年には、ポーズを取っている時間は、陽光を一杯に浴びて、一五分必要であった。一年後には、日陰で一三分間で足りた。一八四一年には露光時間は二、三分にまで短縮され、一八四二年には、わずか二〇秒から四〇秒にまでなっていた。そしてついに、さらにその一、二年後には、カメラの前でポーズを取る時間は、もはや肖像写真を撮影する上で、全く問題にならなくなっていた。」とありました。
従って、1844年の段階では既に露光時間は肖像写真を撮影する上で全く問題にならなくなっていたことになります。しかし、ミレーと妹のポーズを見ると、露光時間に問題がなかったようには見えません。20秒から40秒、或いはそれ以上の露光時間の長さを感じます。1841年の2、3分の露光時間としてもうなずける写真画像でしょう(露光時間に関しては、第7章に記載した1870年代の写真にシャッターを持ちながら懐中時計を見ている図がありますが、それからすると、前記ダゲレオタイプの露光時間に関する記述を直ぐには信じ難い気がします。ただし、それは素人の感覚で、露光時間は写真画像を見て判断できるようなものではなく、もっと微妙な代物かもしれません)。
1840年頃には光学機械商が安いカメラを開発したとあり、感光板も安くなったとあるので、1840年の第一回目のシェルブール帰省の折に、この記述で既にフアルダンがカメラを手に入れていたと推測することも可能ですが、幾ら好奇心旺盛でも、まだカメラはそんなに安くなっていないであろうし、パリでの最先端の技術を、シェルブールのフアルダンが利用できたかどうかを考えると、フロイント氏の記述だけで断定はできないと思います。
ここで露光時間から離れて、写真の被写体、つまりモデルに付いて検討すると、祭りにミレーに連れられてグリュシー村からシェルブールの町に着飾って出てきた妹が、記念に兄との写真をフアルダンに注文したのか?(写真が普及していない、黎明期の庶民の反応としては考え難い) 或いは前記の状況でミレーが友達のフアルダンを訪ね、たまたま写真撮影の準備をしていたフアルダンが、妹とミレーを見て急にモデルになってほしいと頼んだのか?(偶然性が高すぎる) 当然、事前に祭りの日に妹を伴うので宜しくとミレーがフアルダンに依頼していた?(としたら、何故フアルダンが写真を所有しているのか?後記するように、ファルダンが撮影したことは間違いありませんし、最終的に美術館のコレクションになっていますが、これは愚問でしょう)それとも、祭りと関係なくフアルダンがミレーと妹にモデルを依頼したのか? かなり面白い問題提起と思います。
もし、それが1840〜41年とすると、どうして、ミレーの結婚相手のポリーヌではないのか? その方が興味が湧きます。ミレーの自画像と対のポリーヌの肖像画が残され、それはポリーヌの死後、思い出すのがつらいミレーが彼女の実家オノ家に送呈したとのことです。従って、もし、フアルダンの撮ったポリーヌの肖像写真があったとして、ミレーがそれを持っていたとしたら、その時一緒にオノ家に送られたと思われ、それがないのは、当然、何かの都合でポリーヌの写真が撮れなかったのかもしれませんが、1840〜41年の時点ではまだフアルダンがカメラを持っていなかったと考えた方が理にかなうと思われます。それより、何故、郷里の衣装を身にまとった妹が写真に残ったかを詮索したいと思います。
このミレーと妹の写真が掲載されていたフランス国立美術館連合の画像サイトで写真家としてフアルダンを検索すると28点(数点重複)の銀板写真が掲載されていますが、かなりの数の「軍艦」の画像があり、「二人の男」と「ミレー」、「ミレーの家族」、「幼女の亡がら」、それとこの「ミレーと妹」です。この写真画像を眺めながら、フアルダンが、かなり高価なカメラを用いてダゲレオタイプの時代から、職業としてではなく、写真を撮り始めた理由を考えると、書店員であったフアルダンがメダルと古銭に興味を持ち、その趣味が認められ、メダルと古銭学の権威になる過程で、メダルと古銭を画像に残す、実用的な理由でカメラを手に入れたのではないかと想像されます。しかし、1840年代のカメラの値段(1841年で250〜300フラン、ミレーのシェルブール市からの奨学金が年額400フラン)、感光板の普及等を考慮し、22歳のフアルダンの歳を考慮すると、やはり、1841年にフアルダンがカメラを所有している可能性は少ないと思われます。〔或いは、
― フアルダンについて ―にあるように、ノルマンディーの県議会議員であり収集家のド・ジェルヴィル氏が、写真発明後かなり早い時期に助手的立場のフアルダンに資金援助したのでカメラが入手できたのかもしれません。従って、メダルや古銭の写真はド・ジェルヴィル氏の為に撮られ、フアルダンの写真としては1枚もないのかもしれません。かなり穿った推理ですが、裏付けがありません。それより、画像サイトに掲載されているフアルダンの銀板写真について考察すると、フアルダンの息子がミレーの長女と結婚しているので、父親の遺品を整理する時、ミレー家ゆかりの写真、フアルダンの親族かの写真、幼時に亡くなった身内の写真、それに、息子の好みで、シェルブールの軍港に停泊の軍艦の写真だけを手元に残したのかも知れません。それ以外の銀板写真の内、メダル、古銭関係は生前にフアルダンによって博物館に寄贈されたか?業界関係者に譲渡されたのか?(挿入:再び、銀板写真映像が反転したものである事を忘れていました。従って、正確な記録画像とは言いがたく、参考資料程度のものでしかなく、破棄された可能性もあります。従って、石膏で型取りされたメダルが博物館へ寄贈された記事が残されているのかもしれません。しかし、メダル、古銭の記録画像としての実用価値は半減しましたが、鏡に反転させて参照すれば充分資料価値はあり、全く無駄と言う事ではなく、やはり、フアルダンは写真の記録価値を認識して、カメラを使用したと思われますが、残念ながら、裏付けのない想像です) ド・ジェルヴィル氏没後、「古銭学誌」の共同出版者になり、業界第一の定期刊行誌にしたフアルダンは業界誌に写真を多用(未確認ですが、古銭カタログには写真が必須)したと思われますが、その時は専門の写真家に依頼し、最新の写真技術を採用したと思われます。前記したように、フアルダンの息子とミレーの娘が結婚しているので、遺族によりミレーに関する写真が運良く保存されたと思われますが、カメラを手にした好奇心旺盛なフアルダンが、これだけしか写真を残していないとは考え難く、数多くのノルマンディーに関する画像がフアルダンによって銀板上に残されたのではないかと想像されます。しかし、それらは何処へ行ってしまったのか? 偶然に蚤の市で見つけた
「写真」からこのホームページは書かれていますが、日の目を見ない無数の写真に思いを馳せました。〕
以上のことから、フアルダンがミレーと妹を撮影したのはやはり1844年の方が可能性として高く、しかも、メダルと古銭の目録を作る目的のカメラで、研究者フアルダンが、兄妹の記念撮影というより、郷土色豊かな服を身にまとった人物像を記録に残そうと考えたのではないでしょうか。
ミレーを改めて眺めると、彼もノルマンディー地方の衣装を身に着けていると思われ、これは最初に掲載した素描[1](1845〜6)の服装に似かよっています。これも、1844年の撮影を示唆します。
故に、この銀板写真はミレーの手元に置かれず、メダル・古銭学の研究家のフアルダンが画像を記録として残す為のカメラで撮られた他の郷土資料と一緒に保管され、特に注目もされず、近年、シェルブール時代のミレーを掘り起こす研究の中で、フアルダンの銀板写真が再検討されて、この写真画像が「ミレーと母親」(最初のタイトル)と査定され、世に出たのではないでしょうか。1854年の短髪の「ミレーの肖像写真」は絵葉書になっているのでかなり早い段階で、家族の写真と共にミレーの肖像(ナダールのミレーの肖像写真を参照すれば歴然)として公表されていたと思われますが、この妹との写真は今までどのミレー展カタログにも載っていず、かなり最近の発見ではないかと思われます。画像サイトの目録番号はPHO1984-101となっています。この銀板写真は1984年にミレーと母親と認定され公表されたのかもしれませんが、この銀板写真が1986年開館のオルセー美術館の十九世紀の写真部門のコレクションとして、国立図書館の写真部門から移籍される際の目録制作の時に付けられた番号に過ぎない可能性もあります。コダック・パテ財団からのオルセー美術館への写真コレクションの寄贈は1983年なので、その後にまとめて目録が作られたのかもしれません。(新しい解説によれば、acqusition獲得が1984年なので、ファルダンの遺品を相続したと思われるひ孫デニーズが1984年に亡くなっているので独身だった彼女による寄贈の可能性が高いでしょう)その他、ネガ番号が記載されていますが、それが写真の認定年代の査定に役立つとも思えません。他の銀板写真の目録番号を調べると、「ミレーの家族」の写真がPHO1984-100で短髪の「ミレー肖像写真」はPHO1979−60です。となると、移籍の際の目録番号とも考えられず、国に買い上げられた際に付けられた番号かもしれませんが、1979年では最近過ぎます。フアルダンの銀板写真は当然まとめて購入、或いは遺贈されたと考えられるので、前に推測したように、画像サイトに掲載されていないフアルダンの銀板写真がこれ以外にも数多く存在するのではないかと思われますが、単に銀板写真だけの目録番号かもしれません。画像サイトでダゲレオタイプで検索し、その目録番号を調べると、1855年の万国博覧会会場の写真がPHO1984-37-2など同じ形式の番号が記載されています。従って、目録番号によって何かを知ろうとしても、ネガ番号同様、無駄のような気がしますが、「ミレーの家族」の銀板写真と「ミレーと母親」の銀板写真の番号が隣り合っている事は何かを暗示させますが、確定公示された年代を明示するものではないでしょう。いずれにしても、写真が美術館で市民権を獲得し始めたのは最近のことと思われ、十九世紀の写真の被写体についての研究がどこまで進んでいるか、非常に興味がありますが、若い研究者の興味の対象になっているのでしょうか? この「ミレーと母親」の銀板写真の詳細に付いてご存知の方が居られましたら、ご一報ください。(これは、写真のタイトルが「ミレーの弟と妹」に変わる前に書かれたものを一部、母親を妹に訂正したものです。しかも私が勝手に「ミレーと妹」に査定し直し、それに基づいて書き直しています)
改めて、好奇心にとんだ研究者としてのフアルダンの存在があって、偶然に貴重なミレーと妹の画像が銀板写真として残されたことを思います。
また、1854年の銀板写真もフアルダンが所有していたことを併せて考えると、これらの銀板写真はミレー側の依頼ではなく、フアルダンが自主的に撮っているので、ミレーには渡されなかったと考えました。でもミレーがこの写真がほしかったら、画やデッサン、版画と引き換えたら容易に手に入れられたであろうと考えると、当初、画家ミレーはそれ程写真に興味がなかったと思えます。(後年、アメリカに渡る弟と共に、画を売り込む為に既に撮影された自分の画の写真を集めたと言う話がありますが)そんなミレーより、フアルダンの方がメダルや古銭の目録等を制作をする過程で、早くから
写真の記録としての重要性を認識していたと言えるのではないでしょうか。このことは、このホームページで取り上げている
「写真」に写っている画家たちの内、誰一人としてこの
「写真」を所有していなかったとみられることにも当てはまるかもしれません。(このダゲレオタイプの写真、家族の写真と共にacqusition獲得が1984年とあるので、ひ孫のデニーズが亡くなった1984年遺言で寄贈された、あるいはピカソの絵のように、相続税の替わりとして国の所有になったのかもしれません。現在問い合わせ中です。現時点では推測だけです。ただ、タイトルの変更、及び、撮影年代が確定されてないことは、伝承が付いてないということでしょう。残念なことです。ナダールやカルジャによるミレーの紙焼き肖像写真は、かなり市場に出回ったよですが、銀板写真はネガではなく、複製されず、一点だけで、後にイメージの複製画像はカルテ・ポスタルなどになりましたが、このオリジナルの銀板写真を誰が所有していたのか?ミレー側からは何も語られていない故に、フアルダンが常に所有していたと思っての考察は問題かもしれませんが、1984年のacqusitionはファルダン家のが保存していたと事を示唆していると思います。)
最初の問題に戻って、モデルを俎上に載せて年代査定をすれば、シェルブールでフアルダンによって撮影された事はほぼ確定されているので、一回目のパリ留学からの帰省時1840〜41年か、ポリーヌが亡くなった後の二回目の帰省時1844年頃になります。しかし、写真画像を見ての推定露光時間から3、4年の撮影年代の差を判定するのは無理です。但し、1853年の結婚を記念してフアルダンによって撮られた銀板写真と比較し、かつ、ミレーの年譜を参照して、妹とミレーが一緒に写真に撮られる事が可能な年代を考えると、この銀板写真が1850年頃に撮影されたとする、フランス美術館連合の画像サイトの年代査定がいかに杜撰であるかわかるでしょう。その上、母親の1850年の年齢から、タイトルを「ミレーの弟と妹」に変更した事も安易過ぎると思い、撮影年代と共に検討し、新たに提供されたミレー家の系図から妥当と思われる「ミレーと妹エメリー」としました。また、カルジャのミレーの肖像写真との比較を通しても、ミレーと推定でき、撮影年代を1844年と推定するのが妥当でしょう。
【訂正 2013年9月15日】2012年4月に送った手紙の返事が、12月20日にメールで届きました。すぐ返事しない事をわびてはいますが・・・、出来るだけ早く返事をするとの事でした。そして、2013年4月24日に返事が届きました。オルセー美術館の研究機関からのメールとして添付しようと思いましたが、個人に届いたメールとして、公表することを控えることにしました。入手当時「ミレーと母親」との伝聞をそのままタイトルにしたとの事。メールの送り主はinterrogerと言う言葉で「ミレーの弟と妹」と言うタイトルも間違いないとしているわけではないけれど、前のタイトルを裏付ける文献がない限り、「ミレーの弟と妹」を採用するとの事で、確定する文献が存在しないと言うことで、オルセー美術館側の研究結果ではあるけれど、推定と言うことになると思います。この返事に、エメリーが年上に見えるとあったので、サンシエの伝記にエメリーが姉であるとの記載があるので、そのコピーを添えて、メールしましたが、それに対する返信はまだありません。従って、このサイトで提示した「ミレーと妹」と言う推定タイトルも、まったく否定は出来ませんが、改めて、ミレーの肖像写真と若者の肖像写真を、透明フィルムに転写して重ねて検討した結果と、第三者に見せて意見を聞いた結果から、よく似ているけれど、同一人物ではないと、独自に結論いたします。従って、サイトを訂正すべきでしょうが、この追記はそのままにします。文献の裏付けのない写真の同定は容易ではないことの実例として。