> 写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る

画像・ カタログ / 「写真」の人物 / 四点の肖像 / ディアズとトワイヨンの石版画 / リボの銅版画 / ポッテルとリュイスダールの銅版模刻画 / ミレーの「鍬の男」複製写真1863年9月1日出版・ 末尾

5.写真の人物査定の発端ブーダンを語る


前頁に思わせぶりなことを書きましたが、その前に、まず、この「写真」がどんな形で出現したかから語りたいと思います。
 そうです、思い起こせば、この「写真」の呼びかけを聞いたのは、サン・シュルピスの教会前広場、噴水のある場所、6区の区役所の前の骨董市の珍しく古い写真を売っていた店でした。その後、その店を二度と見かけません。何かお伽噺の語り口みたいですね。しかし、ほんとのことで、ふっと目に入り、「あっ、ミレーかも知れない」と思い、手に取り、特に確信はありませんでしたが、この「写真」を買うことにしました。まったく、偶然の出会いです。
 いつもは版画を求めて骨董市めぐりをしています。写真は版画と同じ複数製作品で(つまりそれ程高価ではなく、絵葉書写真などは、当時、絵葉書用写真の量産技術が開発され、大量につくられたので、現在希少価値があるもの以外は、かなり廉価に手に入り、今回のホームページに多用できる結果になりました)、興味の対象ではありましたが、特に気を入れて見ていたわけではありません。従って、この時どうして、気が惹かれたのかよくわかりません。「ミレーかも知れない」と瞬間思ったのも、後から考えれば、なぜだか分かりません。最初のページに書いたように、ミレーの自画像デッサンの記憶はありますが、それがこの「写真」の人物と結びつく根拠は何処にも見出せません。脳細胞に刻まれた記憶の神秘とでも言うのでしょうか。ミレー以外の人物についてはまったく心当たりはなく、数人の若者については、たまたま近くに居た村童たち位に考え、当初「もしミレーと証明できたらすごい」と一人で期待を膨らませながら手元に置き、ミレーの肖像画や肖像写真を探し回りました。
 しかし、身近に置いて眺め暮らしている内に、ミレーと思われる人物以外は、まったく心当たりがなく、ルソーかも知れないと思われた人物も、彼の肖像が見つからず、時と共に、ミレーがバルビゾンの村人と写っている写真とも思えなくなりました。髪の長い、ひげもじゃのミレーならわかるけど、髪が短い上、スーツ姿など、伝記に書かれているミレーに合わず、単に顔が長いので、ミレーかも知れないと幻想を抱いただけで、世に目のある人が居ないわけはなく、これまで、誰も注意しなかったにはそれなりの理由があり、やはり「ミレーではないかもしれない」と思いかけましたが、心に引っかかるものは残り、折に触れて思い出すものの、ミレー、ルソー以外には思いつく人物も現れないまま日は無為に過ぎてゆきました。

しかし、ついに現れ、まったく思いもかけぬ人物から、思わぬ方向に進展して行きました。

○ ある時期まで、すぐ側において眺め暮らしていたので、人物の顔は頭の中に入っていたようです。1874年にナダールの写真スタジオで第一回印象派展が開催されてから100年経った1974年に、それを記念した「印象派百年」展がグラン・パレで開催され、そのカタログをほぼ20年後に古本屋で手に入れました。手に入れた直後はカタログの末尾に画家の肖像付きの経歴が載っていることさえ気付きませんでしたが、ある時カタログを見るともなくめくっていて、フット、末尾の画家の肖像写真の一つに目が止まりました。多分何かが心に引っかかったのでしょう。

「印象派百年」展カタログ表紙
「印象派百年」展カタログ
見開きページ
参加画家の紹介、見開きページ

これがカタログの表紙と、末尾の見開きページです。

なぜかわかりませんが、理屈抜きに、直感でそこに掲載の肖像写真と「写真」の人物は同一人と思いました。そして、その彼から想像もしなかった査定物語が始まったのです。

従って、本来の査定された順序を守るのであれば、当然、彼を第一番目に持ってこなければなりませんが、この「写真」の査定物語を始めるに当たって、解決のきっかけになった彼から始めなかった理由は、この「写真」を入手した最初の動機が「ミレーかも知れない」にあったのと、序章として、最初の査定の信憑性を含め、どこまで読者の興味を喚起できるかと言う問題があったので、一般によく知られたミレーの査定過程から書き始め、もし、多くの人が疑問に持つ程度の査定結果だったら、継続を断念するつもりでした。従って、引き続き「ミレーと査定する根拠 」とタイトルを付けて書き続けることになりましたが、ミレー一人しか思い当たらなければ、途中で投げ出していた可能性も充分にあり、ミレーを追い続けられたのも、すべての人物 (パイヤール夫婦についてはまったく天啓と思いましたが、それも、彼から始まった査定の手がかりが、粘り強い執念を呼び、見付けることができたと今は思います) の査定が出来たのも、この「印象派百年展」の末尾に掲載されていた彼の肖像写真を足懸りに十九世紀後半の美術界を調べることで、思わぬ物語に発展、何とか完結しなければならないと思ったからで、まったく彼の肖像写真に出会わなければ始まりも終わりもなかったと思います。

それでは、その発端となった人物を見ていただきます。

左が画家ブーダンの肖像写真で、右が「写真」の人物です。

カルジャ撮影ブーダン肖像写真 「写真」の人物

このブーダンの肖像写真についての著作権は「昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。→写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。」(インターネットの「写真の著作権について」より)に該当すると言うことで掲載させていただきます。但し、何かの理由により著作権が有効であるなら、連絡くだされば対処いたします。以後、写真の著作権に付いて断り書がない場合は上記要綱により掲載しているか、著作権を所有していると了承ください。
先頭 / 末尾
いかがですか? 改めて、拡大して比べると、特徴ある鼻の形がそっくりなことが確認できます。

はっきり言って、細かく後から検討すると、鼻が似ている以外、帽子をかぶっているし、ひげの伸ばし方も違うし、これといって共通点は挙げられません。強いて言えば目が似ているでしょうか? しかし、その時は、長い間手がかりもなく過ごしていたので、充分すぎる決定要因に思えました。

そして、ブーダンを調べることから、芋蔓式に「写真」に写っている人物が査定されてゆき、写っている人物たちの姿が、十九世紀後半の美術界を調べることで、興味深い事実として、モンマルトルの麓、テュルデン大通りで開催される土曜日のサロン(晩餐会)に現れ、撮影された状況をそれによって推測することができ、次代の印象派とのつながりも画像として残った事が明らかになって、この「写真」が貴重な時代の証言写真であることが・・・・・・・・・・。

先ず、驚いたことに、ブーダンはル・アーブル(北フランス、セ−ヌ河口の港町)で十七歳のモネに出会い、モネの最初の画の先生になっています。そのことがあり、第一回印象派展に、モネが参加依頼をし、三点の油彩画と六点の額に入れたパステル画、四点の額に入れた水彩画を出品しました。そして、その年のサロン展にも二点の油彩画を出品しています。印象派展はサロン展に対抗して開かれていることもあり、第一回展はかなり規約もゆるく、杜撰でしたが、以後、サロン展への出品は禁止され、そのためか、彼らの首謀者と見られながら最初から参加しないマネと同様、その後は、ブーダンもサロン展に出品、印象派展には参加しませんでしたが、第一回展に参加しただけで、カタログの末尾にブーダンの肖像写真と解説が載り、それが「写真」の人物捜査の発端になったわけで、まったくモネには感謝します。

○ ここでやはり、ブーダンがそれ程知られた画家ではないと思うので、先ず彼の作品を、1928年レ・リエデール出版の「ユージェンヌ・ブーダン」の単色複製画で紹介します。
単色では本来の画の紹介にはなりませんが、著作権の問題が発生することを回避するためですのであしからず。カラーの画を見たい方は、インターネットでお探しください。(Yahoo! FranceでRMN《国立美術館連合の略》と入力し、2番目の写真管理サイトをクリックし、ページが開いたら、項目の一番上の捜索RECHERCHEをクリック、一番上の空白、自由検索に名を入れてもいいですが、芸術家名ArtisteにBoudin と打ち込み、楕円の囲みEnvoyerをクリックすれば、333点の画像を見ることが出来ます。Fondsで油彩画Peinturesだけを選べば、43点の画像が掲載されています。当然、Milletも同様にして見ることが出来ます。その他にも画像を載せているサイトはいくつかあります。お試しください。2005年3月以来、RMNの写真サイトの様式が変わってしまい、前記と変わったので、改めて簡単に説明します。2005年3月10日現在、RMNで検索すると、3番目が写真のサイトになりました。ページが開いたら、上部右側の白文字Rechercheをクリック、画面が変わったら、左の一番上のRECHERCHE SIMPLEで画家名を入力。一番下のFondsでPeinturesを選択し、茶色の3つの文字の真ん中Rechercheをクリックすれば、Boudinなら57点のイメージが見られますが、ブーダン美術館に保管された他の画家のイメージも掲載されているので注意してください。別の項目の記入については各自試みてください。日本のサイトでもブーダンの彩色油彩画は掲載されています。)

油彩画「聖アンヌ・ラ・パリュの祭り」
「聖アンヌ・ラ・パリュのパルドンの祭り」
油彩画「静物」
「静物」
(左)から説明しますと、1859年のサロン展に初入選した「聖アンヌ・ラ・パリュのパルドンの祭り」(一年の許しを乞うブルターニュの祭り)です。ブーダンは、この前年にモネがカリカチュール(戯画による似顔絵)を展示して注文をとっていたル・アーブルの画材店でモネ(当時17歳)と出会い、本格的に画を描くことを勧め、写生に連れ出し、モネを画の道に引き入れました。そして、ブーダンがこの年のサロン展に初入選したことで、(オンフルールの母親の隠棲した家に寄宿して)サロン展の批評をしていたボードレールがブーダンに興味を持ち、加えて、ノルマンディーの旅をしていたクールベもブーダンを訪ねてきます。そして、ボードレールとクールベは既に冷えかけていた旧交を温め、多分、旅籠屋サン・シメオンの夜会で、他の仲間を交え三人は共に酒を飲み交わしたと思われます(この時、ブーダンに連れられて、農場サン・シメオンでモネはクールベに会っている可能性追記2006/10/23:ジェフロワ著「モネの生涯、作品」にブラッスリー・マルティールで「クールベを見かけたが、知り合ったのは兵役から帰ってからだ」とモネが語っている文章を見付けましたが、モネはジェフロワに彼の知らない若い時のこと(兵役期間に関しても、「草上の昼食」を何故サロン展に出品しなかったに関しても、その代わりに出品した「緑の服の女」を4日で描いたという話にしろ)は思い違いにしろ、意図的にしろ、事実ではないことを語っているので、クールベと出合った時期も彼の記憶とは違うかもしれません。参考まで。】もあり、たとえ会っていなくとも、ブーダンから彼らの話を聞き、刺激を受け、サロン展を見るべく、パリに出奔したのかもしれません。単なる想像です)。因みに、オンフルールでブーダンの借りていた家と、ボードレールの母親の隠棲した館とトゥータンおばさんの宿=農場サン・シメオンは近くにあったことから、クールベにボードレールがいることを教えたのはブーダンではないかと想像され (文献としては、 クールベをノルマンディーの旅に連れ出したシャンヌが町で偶然にボードレールと出会ったと書いていますが、町の画材屋の展示窓で偶然ブーダンの画を見て感動したシャンヌがブーダンのことを画材屋で訊ね、クールベを連れて会いに行ったともあり、しかし、美術の文献にはシャンヌは出てきません。ボードレールなどの文学の文献によります。シャンヌはミュルジェールの書いた「ボヘミヤン生活の情景」1851年刊の中のショナールのモデルです。芸術家として大成せず、最終的には家業を継ぎますが、若い時は画家と音楽家を志して、ボヘミヤン生活に身を投じ、その中で、写実主義の旗手、シャンフルーリやクールベの仲間でした。注が長くなり、ブーダンのことから離れたので戻ります)、この時のクールベとの出会いは、画家としての気質の違うブーダンには大きな刺激になり、この交流は続き、クールベが「パリ・コミューン」に参加し、「バンドーム広場の円柱引き倒し」の責任を問われ投獄された時には手紙を書き、わざわざ会いに行くほど大事なものだったようです。そんなことで、以後のブーダンにとって重要な出会いをもたらす画になりました。この画は市にブーダンが額つきで500フラン(ミレーの月契約から換算して現在の日本円で18万円位ですが、物価指数などが違い、単純に数字だけでは比較できませんが、確か、ほぼ10年前のミレーの「簸る人」も500フランでした。)で売ったもので、少ない金額にがっかりしたことが日記で窺われます。
(右)は静物で初期の作品と思われます。2点ともル・アーブル美術館蔵です。

油彩画ブーダン作「父親の肖像」
「父の肖像」
← これはブーダンが描いた父親の肖像画ですが、画題を見る前は、ツケ鼻をしたピエロの肖像かと思いました。その後、ブーダンの鼻の形が「写真」の人物と似ていることが決め手になると、改めて、前掲載のブーダンの肖像写真の鼻はこの肖像画から父親似であることが想像されます。しかし、掲載した肖像写真以外は、それ程鼻が目立っていません。写真に定着される映像はかなり瞬時のもので、しかも一面しか写されず、写真画像だけで同一人物であるという査定はかなり専門的な知識を必要とするのかもしれません。従って、補足的に、文献により可能性の追求をする必要を感じました。
ブーダンの紹介記事

画の紹介の途中ですが、上に掲載したのは、「印象派百年展」のカタログの末尾にあったブーダンの略歴です。その前に掲載の父親の肖像画と見比べると、やはり親子の風貌が似ていることを感じます。それに比べ、他に残されたブーダンの肖像写真を3点見ていますが、1点を除いたそれらでは、「写真」の人物をブーダンであると突き止められなかったかもしれません。それを考えると奇妙なものです。肖像写真の下に、写真が国立図書館の版画室に保管されていると記されていますが、フアルダンによって写されたミレーの一連の銀板写真も以前はそこに保管されていました。従って、このブーダンの写真も、現在はオルセー美術館に移管されているかもしれません。
 このブーダンの肖像写真を撮った写真家ピエール・プティのネガが現在どこに保管されているのか、それもわかりません。彼の紙焼きされたものは、写真を収集している各美術館などに保管されているようですが、原板の所在は、記された国立図書館なのでしょうか?フランスの王立、帝立及び国立図書館、美術館の歴史も古く、近年新たに、国立図書館、美術館が造られ、管理、管轄がいろいろ変わり、保管場所が移されたりするので、正確にどこに保管されているのか突き止めるのは難しそうです。
 フランス学士院にも古い写真の蒐集(約4万点)がありますが、それはガラスネガのままなのか、紙焼きされた写真なのか? 考えると、ポジでなければ普通の画像として見られず、加えて、ガラスのネガなどの保管、管理は場所もとり、容易ではなく、ネガの存在しないポジ写真の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。必要ならば、紙焼き写真からネガが起こせますから、数枚焼き増しすれば、ネガを保管することの意義は当時からあまりなかったのかもしれません。ただし、写真館の宣伝には、ネガを保管し、いつでも焼き増しできると書かれ、各写真館にはかなりの量のネガが保存されていたと思われますが、現在どんな形で保存されているのか、ガラスは貴重なため、再利用されたともあり、写真館閉鎖後はほとんどが破棄されたのか?
 それらを考慮すると、この「写真」は記念のために撮られたと思われ、商用(写真店で売るため)に撮影されたとは考え難いので、多くの写真同様、ネガは存在せず、ポジ写真も数葉が紙焼きされたに過ぎないと思われますが、結論はもう少し人物査定を進めてからにしましょう。
プティの写真台紙裏
プティの写真台紙裏

プティの名刺大写真名刺大写真台紙裏
プティの名刺大写真と裏
1867年のものです。

話をカタログに戻すと、略歴に、ブーダンと関わった当時の画家たちが記載されていますが、羅列すると、イザビー、トロワイヨン、コロー、クールベ、ヨンキント、ディアズ、カルス、ドービニー、そして特筆してあるのが、最初のモネの師であることでした。この解説にミレーとの出会いは書かれていません。印象派百年展のカタログなので、印象派との繋がりを重視したからでしょうか。

父親の肖像画から、ブーダンの肖像の比較に流れ、流れついでに、写真画像を容易に使える、Webページの利点を生かし、父親の顔と、1896年頃に撮影されたブーダンの顔、「写真」の人物を比較して見ます。
カルジャ撮影ブーダンの肖像写真ブーダン作父の肖像1896年のブーダン「写真」の人物 四点の顔を並べたのは、「写真」の人物がブーダンである可能性を先ず画像を通して納得しておいていただきたいと思うからです。こういう形で比較すると「写真」の人物が47歳位で一番若い時の容貌であることがわかります。
尚、3番目の肖像写真は、除いた1点で、1896年頃、ドーヴィル海岸で日よけの大きな傘の下、画架を拡げて海景画を描いている姿です。最晩年のこの肖像写真は数点の資料で見かけ、前掲載の次に著名なブーダンの肖像写真と思われ、参考資料として、顔の部分だけ使わせていただきました
先頭
○ ブーダンの画の紹介を続けます。

油彩画「トゥルーヴィル海岸」
「トゥルーヴィル海岸」
油彩画「ボルドー近くの海」
「ボルドー近くの海」
(左)海景画はブーダンの代表的な作品です。3分の2を空が占め、コローはブーダンを「空の王さま」と呼び、クールベはブーダンを「天使のように空のことをよく知っている」と讃えます。ボードレールのみならず、人はブーダンの描く「空」に気象学的な正確ささえ讃えています。ブーダンの描く空については、光の変化を捉える印象派たち以前に、自然に興味を持ち、時間の推移、ものの動きをすばやくキャンバスに定着させる試みをしていたブーダンの特異性を指摘できるでしょう。それをモネはもっと意識的に、同じ対象物の時間による推移、光の変化を追い、連作と言う形にしたわけです。 画題「トゥルーヴィル海岸」
  (右)同じく海景画、船を描いたものです。「ボルドー近郊の海」と題が付いています。ブーダンは画を描くために、ブルターニュ、ベルギー、オランダ、ボルドーなど各地を旅行していますが、ノルマンディーにいつも戻ったということです。
油彩画「トゥケ谷の牛」
「トゥケ谷の牛」
油彩画「エトルタ」
「エトルタ」
(左)トロワイヨンとはオンフルールでブーダンが額縁兼文房具店の共同経営者だったときからの知り合いで、文房具店をやめて、画家の道に精励し始めた時、トロワイヨンはル・アーブル市の奨学金を得るのに力を貸していますし、ブーダンが結婚後パリに出た時、トロワイヨンは下描きの手伝いを依頼することで、経済的に助けています。そんな事で、動物画の分野でトロワイヨンと題材が共通したものとして選びました。 画題「トゥケ谷の牛」。
(右)も同様に、クールベもモネも描いている「エトルタ」です。各画家の特色は同じ画題を見比べるとよくわかります。

ブーダンにとってトロワイヨンは物心両面で援助して貰った先輩画家です。簡単に紹介しましょう。
トロワイヨン画「主人の目」の銅版画クートゥリー作
トロワイヨン画「主人の目」の複製銅版画クートゥリー作
トロワイヨン肖像石版画
写真をもとにした、トロワイヨンの肖像石版?

モンマルトル墓地のトロワイヨンの墓
モンマルトル墓地のトロワイヨンの墓

1810年にセーヴルで生まれています。父親はセーヴル国立磁器工場の磁器の絵付け画家でしたが、トロワイヨンが7才の時に亡くなります。彼は磁器美術館館長リオクルーの甥で、リオクルーに師事し父親の後を継ぎますが、風景画に興味を持ち、画家ロックプランと知り合う事により、所謂、三〇年派のディアズ、ユエ、ルソー、デュプレ、最後にバリーなどと共に画を描き、バルビゾン派としてコローとルソーの中間と位置付けられています。1833年からサロン展に出品し始め、1838年サロン展で3等賞、1846年には1等賞を受け、風景画と動物画で1850年には生前に成功した画家の仲間入りをし、画の注文が引きも切らない様になり、バルビゾン派で一番最初に成功した画家と言う事ですが、1859年に美術評論家カスタニャリーは彼に対し「僅かに詩情が残るだけで何もない」と彼の限界を指摘しています。(バジールは従兄弟から画の相談を受けた時、「トロワイヨンは安易に流れたのでやめた方がよい」と手紙に書いています。)しかし、成功した画家として、ブーダンとモネが世に出るのを助け、1865年に梅毒で脳が冒され亡くなり、モンマルトル墓地に葬られました。

 ブーダンに戻り、

○  それではいよいよ、文献による裏付けに入ります。

先ず、前頁を引き継ぐので、ミレーとの最初の出会いから。

ミレーの項に、1845年、カトリーヌと駆け落ちして、先ずル・アーブルに落ち着き、そこで画を売って資金を作り、3回目のパリ挑戦に出立する、その時に、ル・アーブルの額縁兼文房具店で注文の画のために画材(及び額縁? マネの先生になるクーチュールとは彼の画を額縁に入れる手伝いをしたことで知り合い、気に入られ、奨学金の推薦状を書いてくれたという話です)を買った関係で、その店の共同経営者だったブーダン(この時21歳)がミレー(この時31歳)に画を見せて、油彩の指導を受けていますが、その時、ミレーはブーダンに画を断念するように説得したと書かれた文献があり、しかし、「ブーダンは頑固にも画の道を捨てなかった」とありますが、具体的に、ミレーがどう諭したのかと言う記述はありません。ただ単に、自分の経験を話し、画で糧を得る困難さを語った程度ではないかとの推測が個人的見解です。その後にブーダンとバルビゾン派の画家たちの交流が続き、特にルソーとミレーの影響が語られ、ル・アーブルでのミレーの指導を感謝しているわけですから、直接的に画の道を断念するように説得したのではないと思われ、この「写真」がその証でもありますが、いずれにしろ、ミレーが初めてブーダンに油彩画の手ほどきをしたという話と、ブーダンが戯画似顔絵で注文を取っていたモネを風景画の世界に連れ出し、最初のモネの画の先生になったという、因縁じみた事実が浮かび上がってきました。

◎ モネがその後、シャイイ村で大画面を描く事実から、もし、モネが査定され、 この二つの事実を証明するのがこの「写真」 ということになれば、貴重な美術史の資料になるでしょう。

モネ自身はヨンキントの影響を強く受けたと語りますが、モネを画の道に導いたのは間違いなくブーダンです。そして、モネ本人がヨンキントの影響を云々する意図を、ブーダンの影響が本質的なものとしてあったからではないかと思います。師弟というほどきちんとした形で教授したわけではないと思われる、ブーダンとモネの関係は画家としてお互いに似通った追求に功名心があったと、二人を調べて思います。ちなみに、落選者展でスキャンダルになった、マネの「草上の昼食」と同じ題名の画を二人は描いています。

・ モネはそれを、1865年にシャイイ村に泊り込み、フォンテーヌブローの森で、高さ約4.65メートル、幅6メートルの大きな画布に、カミーユとバジール(4人分)と仲間をモデルに描き始めます。この画は描きあがる前に評判になり、何人かの画家が見に来ました。そして、クールベが、大きな画布の為の技術指導をし、経済的援助、及び、モデルを買って出ています。しかし、「モネ伝」の著者ジェフロワが書いているところによると、モネは画について、クールベの忠告を受け入れてした修整が気に入らず、サロン展の審査に応募するのをやめたとありますが、真偽はわかりません。この年サロン展にモネは「緑の服の女」を出していますが、それは、バジールが「ピアノを弾く若い女」のモデルのために借りた衣装を、モネが又借りしてカミーユに着せ、4日で描いたものです。バジールはこの年のサロン展が初めての応募で、「ピアノを弾く若い女」は落選、「魚」が入選しました。興味深いのは、この時、バジールは伯母のルジョンヌ夫人に250フランを借りて、その言い訳に、画布、木枠、2週間のモデル代だけで、貸衣装や絨毯などの他の諸経費は含まれないと母親への手紙に書いています。「十九世紀の芸術家の日常」に当時の画布の値段が記載されていたので、それをもとに計算すると、バジールは2枚分の画布を購入しています。それは、モネに、モデルの衣装と画布をバジールが融通し、「緑の服の女」を4日で描き「草上の昼食」の替わりにサロン展に送り、入選でき、それを800フランで直ぐに売却したのも、当時金銭的に無理をしていたと思われるモネの経済状態を考慮すると、うなずけ、モネとバジールの語られない関係を資料を基に推理してみました。何れにしろ、モネはこの大画面の「草上の昼食」の為に大きな借財をつくり、多分この画だけが原因ではないでしょうが、画材屋の借金から逃げ回り、最後は、モネの窮状を救うため、画を買ってくれたバジールにも無体な手紙を書き、戦死したことを知らせるバジールの父親の手紙にも返事を書かず、結婚し、2子をもうけたカミーユは子宮ガンで32歳の若さで亡くなりますが、その時にはすでにその後再婚する、オシュデ氏(印象派の画を投機対象にした収集家、最終的に破綻し、失踪した、一時的なモネのパトロン的人物)の夫人アリスと子供達が同居していた、複雑な状況をつくり、死後のカミーユの顔の色の変化をキャンバスに移すことに夢中になる、その身勝手さをどう評価するか? その後のアリスとの生活から、画が売れ始め、ヴェットゥユからジヴェルニーに引きこもり、印象派の旗手として、名声も上がり、庭仕事と画業に専念できるようになるわけです。当然、カミーユとの関係は多くを語られません。そんな事を考えると、サンシエの「ミレー伝」同様に、ジェフロワの「モネ伝」にも、書かれていることと、事実との間に、モネの兵役期間だけではない、いろいろな脚色が存在する事を感じます。モネの「草上の昼食」は家賃滞納のかたに大家の納屋に長い間置かれ、湿気で腐ってしまい、小さく切られた二つの部分だけが残され、オルセー美術館に展示されています。また、「死の床のカミーユ」もオルセー美術館に展示されていますが、その壮絶さを感じる人はあまりいないようです。又、モネが「草上の昼食」をかたに置いた大家がマネがモネに紹介したマネの奥さんの親戚である事もあまり知られていない事実です。

・ ブーダンの「草上の昼食」は、1866年に描かれ、ノートぐらいの大きさの板に油彩で、ごく普通の森でのピクニックの情景を描き、マネ夫人(実際にはマネの母親でも、マネの奥さんでもなく、マネの弟ウージェンヌと結婚したベルト・モリゾ、マネ夫人に贈られました)に送呈しています。それは、紳士然とした男性の間に裸婦を描いたマネに対する皮肉でもあり、大キャンバスに描くモネに対する批判でもあると思われ、これはブーダンの性格を如実に示しているように思いますが、クールベやマネ、モネの間に挟まれた画家ブーダンのささやかな抵抗でしょうか。この画もオルセー美術館に保管されていますが、展示されていません。

「草上の昼食」で話が横道にそれましたが、1863年の落選者展でスキャンダルになったマネの「草上の昼食」が起こした反響は、1点の画が巻き起こすスキャンダルとして、今日では想像できない位大きなものであったようです。ゾラが出版社に自分の本の挿画をマネに頼むので間違いなく売れるからと話を持ち込んでいる手紙が残されていますが、実現しませんでしたが、本の内容より、マネが挿画を描く事で本が売れる、それ程の話題性があったと言う事はまったくの驚きです。ただ、マネが1862年に法務省の高官だった父を亡くし、相当な遺産を相続し、画を売って生計を立てる必要がない境遇になったことが、この画を初めとするスキャンダルになる画を描けた要因と捕らえる分析もあり、一部は肯定できますが、画家として、独自性や新しさの探求上で、古典画を現代に置き換えた描き直しとする分析のほうが要素として強いのではないでしょうか。何れにしろ、その社会的反響の大きさにブーダンとモネがそれなりの反応を示した結果でしょう。話をブーダンの経歴に戻します。

ブーダンは、正規な美術教育は受けなかったようで、27歳になってから、ル・アーブル市より奨学金を貰い、ルーブル美術館などでの模写を通して自習したので、クールベと一脈通じるところがあり、1859年、クールベ(40歳、ブーダン35歳)と会ったその日の日記に「クールべは既に少しも遠慮のない態度で私に接した」と書き、クールベの飾り気のない鷹揚な態度に好感を持ったと思われ、傲慢で自信過剰なクールベの性格にかなり刺激を受け、よい意味で、クールベと知己を得たことはブーダンに大きな希望を与えたようで、ミレーとは違った意味の影響をクールベからは受けています。

話が、サロン展初入選に飛んでしまいましたので、サロン展入選までのブーダンの経歴を誕生から見てみましょう。

・ 1824年7月12日オンフルールでウージェンヌ=ルイ・ブーダンは生まれています。父親は船乗りでした。上に姉が二人、下に弟が一人いる、つまり、ミレー同様、長男です。ついでに、クールベは四人の妹の一番上の男一人のまさに長男です。なぜ長男にこだわるのかというと、長男が親の職業を継ぐのが、家長制度を採る社会の、古今東西を問わない暗黙の了解なのになぜ彼等は画家になったか?と思うからで、ブーダンは父親の操縦する船で水夫見習いをしている時、運動神経の問題か、間違えば命取りになりかねない事故を起こし、船乗りを断念したということです。父親はオンフルールからルーアンへ航行する船を操縦していたとあり、別の文献には単に船長とありますが、船長であったとしても小さな船であったと思われ、「ポリシネル」(道化役)と言う船名とあり、改めてブーダンの描いた「父親の肖像」を見直してしまいました。前記したように、父親は付け鼻をしたピエロのような風貌だったので、自分の操縦する船にそんな名を付けたのか?中々洒落っ気のある人のような気もしますが、ポリシネルは人形劇の道化役で、演劇の道化ではありませんでした(付け鼻はサーカスのピエロなどに見られますが、その顔が何時ごろ出来上がったのか疑問なので、この話は成り立たないかもしれません)。 長男なのになぜ画家になったかに話を戻し、ブーダンの場合、運動神経の不適正があったようですが、ミレーは画を描くのが好きで、19歳の時に親も認め正式に画の勉強を始めるためシェルブールに出ます。クールベは母方の親戚にパリの法律学校の教授がいるので、親は法律家になることを望み、18歳でブザンソンの学校へ、20歳でパリに出ますが、この時既に彼自身は画の道に進む積もりだったようです。いづれにしろ、ミレーもクールベも、10代後半には既に画を描いていたわけで、従って、ブーダンも同様に船乗りを断念した頃から画を描く環境が生まれていたのではないかと想像したわけです。
・ 1835年に父親の仕事上、ル・アーブルに移転しています。オンフルールとル・アーブル間に初めて就航した蒸気船の単なる船員として就職、母親も同じ船のメイドとして働いたとあります。
・ 1836年、ブーダンは12歳で印刷店で働きはじめます。キリスト教会附属の学校(エコール・ドゥ・フレール)にほんのわずかな期間通い、習字で賞を貰ったことが記されていました。手紙、日記、会計手帳を残しているブーダンは、字を書くことが好きだったようで、それが印刷店で12歳から働いたことと関係があるのではないかと思います。

○ 前記したように、ミレーに初めて油彩画の手ほどきを受けたという話がこの後に出てきますが、額縁兼文房具店での画家との付き合いで、ブーダンが急に画を描き始めたとは思えないので、何時ごろからブーダンが画を描き始めたか、印刷店に就職したこの時点で探ってみたいと思います。
 『印刷物もまだ19世紀初めのように識字率の低い段階では、今日的な大量印刷が必要なわけでは無く、印刷物は稀少性の高い美術工芸品の域にとどまっていました。』(インターネットのサイト・版画の歴史〈メルマガ連載記事〉より)から想像すると、この印刷店で、ブーダンは美術品、つまり、絵画、もっと正確には複製絵画(となると、銅版画や石版画によるものでしょうか?)に触れ、次第に惹かれ、自分でも描き始めたのではないかというのが、周囲に画を描く人がいない環境での、ありうる推測です。各画家がその道に進む動機は違うと思いますが、現在のように、比較的自由に職業の選べる時代とは違うので(語弊を覚悟で書くならば、階級制度がある社会、つまり、職人の息子が医者や弁護士になるのが非常に難しく、貴族になることはほぼ不可能な社会では、本人の努力で一階級上に行くことは可能だが、飛び級は結婚による方法しかないということです。但し、芸術家のみ階級に属さず、全ての階級と交流できるという話です。当然、芸術家は全ての階級の人が努力でなれる職業でもあるわけで、現代でも階級制度が厳然として存在している世界があることを新世界アメリカの影響の強い、敗戦後の現代日本では意識することがあまりないようですが、19世紀のヨーロッパを取りあげる時、キリスト教に対する理解がないと文化全般にわたって正確な解釈ができないのと同様、社会の成り立ちに階級制度が存在したことを考慮する必要も多少あるように思います。文献上ほとんど問題にされた事がありませんが、芸術家の世界にも出自の階級意識が皆無ではなかったのではないかと、19世紀の芸術家同士の関係の中に感じます。問題点が少しずれました)、簡単に職業を選べない環境では、意志する以前に自然にその道に入る環境が大きく作用するように思います。ブーダンにとっては、美術工芸品の複製画を、印刷店で12歳から働くことで目にする機会を得、大きな影響を受け才能が目覚めたのではないかと思いました。(余談ですが、バルビゾンに住み、ル・アーブルにも画を描きにくるディアズも若い頃印刷所で働き、若いデュプレと知り合い、デュプレは父の磁器工場で絵付けに携わり、既に画を描いていたと思われ、そんな彼に誘われ職場を替わり、絵付けをする画家たちと知り合い、画を描き始めたとありますが、それも、ディアズが印刷所で画に接していて興味を持っていたからデュプレとも知り合い、磁器工場に職場を替えたと思われます。) そして、ブーダンは印刷店の職工長と共同で額縁兼文房具店を開き、ル・アーブルにきた画家に依頼されて画に額を付け、親しくなり、油彩画に興味を持つようになり、画材も扱う関係で、自分でも見よう見まねで油彩画を試み、初めて本職の画家ミレーに手ほどきをしてもらったのではないでしょうか? しかしそうなるには、店を出してから1年足らず、2年目には、兵役の問題で店の権利を売り、本格的に画家の道を選んでいるので、店を共同経営してから画に興味を覚えたとするのでは、唐突過ぎるので、印刷店時代から、下地ができていたと想像したわけで、職工長がブーダンと組んで額縁兼文房具店を開いたには、文字が読めるだけでなく、ブーダンが既に画に興味を持ち、それなりの知識もあり、或いは、描いていたからではないでしょうか。ディアズの例を引き合いにしましたが、文献による裏付けはありません。しかし、そのほうが自然でしょう。ブーダンの経歴途中ですが、下にディアズの石版画とデュプレの石版画(他の画家による複製かもしれません)を掲載します。
ディアズ石版画「美」

ディアズの石版画「美」
デュプレ石版画
デュプレ筆とあります。石版画は複製石版制作者名がない場合、画家自身が描いた可能性があります。当然全てではなく、この版は確定できません。
文献により、デュプレ作であることが確認できました。
先頭
・ 1844年、20歳の時、印刷屋の職工長と共同で額縁と文房具を扱う店を開きます。そして翌年、
・ 1845年に前記のミレーとの出会いがありました。
・ 1846年に運悪く、兵役の籤で7年間の軍艦乗船を引き当て、店の共同経営者の権利を、元職工長の相方に売り、代わりに兵役に就く男を買い、兵役を免れました。そして、画の道に専念することに決めたということですが、父親はこの決定に何も口を挟まなかったのでしょうか? それよりも、相方のアシェールと言う元職工長の共同経営者との間で、かなり醜い利権をめぐる遣り取りがあったようで、経済力があるように見えない父親が介入する余地はなかったのかもしれません。また、奇妙な籤による兵役はその後、モネの7年、ルノワールの3ヶ月、ゾラの免除など、それぞれに文献で知ることができましたが、19世紀の全体的な徴兵制度に関する文献にはまだお目にかかっていません。ご存知の方がいたらお教えください。シャルル・ジャックは7年の志願兵になっていますが、ブーダンが買った服役兵と、志願兵はどう違うのか、例えば、マネやセザンヌなどの伝記に兵役に関する記述が見当たりませんが、ブーダン同様にお金を払って兵役につかなかったと想像されますが、定かではありません。カルスは兵役で初めてノルマンディーを知りったとありますが、兵役期間は記されていません。
・ 1847年、ル・アーブルに画を描きにきたリボと出会っています。リボも職人見習いから画家になり、ブーダンとは生涯の友になっています。リボにパリに出るように勧められ一年間ルーブル美術館で模写をしたとも、ルーブル美術館の模写名簿にブーダンの名はないとも、ル・アーブルの市立デッサン学校に通ったともありますが、リボとの出会いを1851年とする文献もあり、どれが本当なのか、わかりません。しかし、もしこの年パリに出ているとしたら、ミレーを訪ねることも、トロワイヨンに教えを請うこともできたのにしていないところを見ると、それ程悲壮な感じではなく、ルーブル美術館を訪ねて帰ってきた程度ではないでしょうか。そして、そこで模写する画家の卵(ラパン、rapinで lapin ウサギではありません。恥ずかしくありますが、長いこと間違っていました)たちを見て、帰省後、ル・アーブル市立デッサン学校に通ったとするのが、順当な流れかとも思いますが、事実を確定することができません。

リボ銅版画「祈り」
リボの銅版画「祈り」です。
先頭
・ 1848年には二月革命があり、ブーダンにどんな影響があったのか、文献にはこの年にリボと会い、市立デッサン学校に入ったとあります。

余分なことですが、国王ルイ・フィリップはル・アーブルからイギリスに亡命しています。そして、もっと余分なことですが、第一回目の海軍兵学校の試験に落ちたマネがこの12月に再試験の資格を得るためにル・アーブルの船舶学校に来て、リオ・デ・ジャネイロへの半年の水夫見習いの航海に出ています。ここで二人の出会いはなかったと思いますが、スキャンダルになったマネの描いた「草上の昼食」を批判してブーダンは同名の油彩画を描き、マネ夫人へと名指しで贈ったことや、モネがマネの描いた「オリンピア」をルーブル美術館に寄贈することに協力を求めた時の拒否などから、ブーダンはマネに対して特別な感情を持っていたことがわかります。それはマネとそりの合わない(と思われる)クールベに対す忠誠か、共に水夫になりそこなったもの同士の感情的な行き違いか? 或いは出自の階級意識によるものか? よくわかりませんが、文献に明記されず、誰も問題にしないのは奇妙なことに感じます。最後にマネに関して、航海先のリオ・デ・ジャネイロで梅毒に感染し、それが命取りになったと、伝記作家は思わせぶりに書いている(若気の過ちで、現地人の風土病に感染し、それが原因とあり、深読みすれば、モンマルトルの麓、ブレダ街の娼婦にうつされたのではないという意味になる)ことをお伝えしますが、数年前の新聞記事で、はっきりマネが梅毒が原因で亡くなったことを知った時はやはりショックでした。その後死因を注意すると、トロワイヨンも梅毒で、ゴッホの弟テオも梅毒で亡くなり、現在のエイズ同様、思わぬ芸術関係者が梅毒が原因で亡くなっています。こんなことを書きながら年代を追うと長い年譜になりそうです。
・ 1849年頃にはテイラー男爵によって、仕事を得、友達の彫刻家ルイ・ロシェと共に北フランスやベルギーで文化財の記録、模写、修復などの仕事に携わったようです。その後もブーダンは折に触れテーラー男爵を当てにし、画を買ってもらったり、模写の注文を受けたりしています。当時テーラー男爵はル・アーブル合同州副領事と言う肩書きも持ち、ノルマンディーにも邸宅があったようです。テーラー男爵は19世紀の文化に大きく関わり、21世紀の現在もその財団はパリ9区に一棟を持ち、1階は美術展覧会場で、最上階に2部屋のアトリエがあります。この財団は1844年に現在地に設立された事を後に知りました。(この財団に、ブーダンとテーラー男爵との関係を証明する資料はないとのことです) →(右)の写真はペール・ラシェーズ墓地の礼拝堂の左横にあるテーラー男爵の墓の大理石立像彫刻です。
テーラー男爵の墓地の肖像彫刻
テーラー男爵の墓
・ 1850年にル・アーブルの芸術愛好会の展覧会に初めて出品した作品が認められ、芸術愛好会は、ル・アーブルの市議会に、ブーダンのために奨学金の申請をしてくれました。(同じ奨学金かわかりませんが、モネも父親が2度申請しましたが却下されています。)この時に、トロワイヨンがブーダンを強く押してくれたとか、額縁のことで手助けをしたクーチュールが保証状を書いてくれたとかと言う話が残っています。この年の申請はもう一人いましたが、推薦状が効を奏したのか、
・ 1851年にル・アーブルの市議会は3ヶ月ごとに300フラン支給する奨学金をブーダンに与えることに決めました。ブーダンこの時27歳、このお蔭で、3年間パリで勉強することができました。奨学金の額は各時代、各市、各公共機関によって違い、ミレーはちなみに、シェルブール市から、年額400フランつまり3ヶ月ごとに、100フラン、月33フランちょっと。時代を考慮しても、ミレーの奨学金では学生生活に余裕があったとはいえないと思います。従って、ミレーがシェルブール市に勉強の成果として作品を送っていないのも当然かもしれません。ブーダンは律儀に模写を送りますが、自作の静物画は受け取られなかったとか、お役所の器量の狭さは今も昔もというところでしょうか。模写は現在ル・アーブル美術館に保管されているということです。
ボッテルの画の模刻銅版画
ブーダンが模写したのは風景画で、これはポッテルの画の模刻銅版画です。参考の為に掲載しました。この原画はディジョン美術館蔵です。
・ 1852年、ルーブル美術館でポッテルPotterの模写に取り組みます。コローの画を購入と記されていますが、何に残された記録なのでしょう。前記したように、手紙、日記、会計手帳が残されているそうで、ルーブル美術館の文書部にでも保管されているのでしょうか? ル・アーブル美術館には弟ルイによって寄贈された習作デッサンが多数展示されていましたが、子がなかったブーダンは最終的に相続は弟がしたのか? 弟との間の書簡集が没後刊行されたようですが、そこに記されていたのでしょうか? 会計手帳に記されているのか? 事細かに収支を記載する習慣は、店の共同経営者になって身につけたものでしょうか? 或いは、コローの画の購入は日記に記されていたものか? 1854年にこのコローを売却していますが、ブーダンは画家になる前に、印刷店の店員から額縁兼文房具店の共同経営者になっている経験から、画を商品として見ることができたのでしょう。ドーミエはドービニーにアメリカ人の顧客を紹介された時、どうしても高額な値段を口にできず、売れなかったエピソードがありますが、後続する若い画家たちにはドーミエのような自分の作品に対するうぶな感覚は見当たりません。
ブーダンはその後も、他の画家の画を買い、その後売却しています。前記したように、パリ・コミューン崩壊後、投獄され、その後、病院に監囚されたクールベを訪ね、クールベからリンゴの画を贈られていますが、その画に付いてのその後の記述はなく、記録に残ってないと思われます。貰ったこの画をブーダンは売ってしまったのでしょうか? コローの画に関して、購入理由は何だったのでしょう? 自分の勉強のため? 値上がりを見越して? 安く買えたから? もしかしたらそれら全てが理由かもしれません。しかし、購入金はどうしたのでしょうか? まさか、奨学金が充分だったとも思えませんが? テーラー男爵にまた模写画を依頼されて、臨時収入があったのでしょうか? それ程、その頃のコローは安かったのでしょうか? などの疑問は、無知蒙昧な輩の発する、戯言と聞き流してください。
 ブーダンはル・アーブルの芸術愛好会の展覧会に出品しているように、各地の展覧会、例えば、ルーアンやボルドーに作品を送り、風景画が百フランで売れたり、肖像画の依頼を受けたり、模写を依頼されたり、楽譜の挿画を引き受けたりと、いろいろなことをしていたようで、正規の美術教育を受けた画家よりもずっと融通を利かした方法で収入を得ていましたが、頑固に独自の道を築きあげていけたには何があったのでしょう? ミレーと知己を得、クールベと知己を得ていれば当然の感化かもしれません。
・ 1853年、リュイスダールの模写をする。
リュイスダールの画の19世紀初期模刻銅版画
オランダ派 リュイスダール 19世紀初期の模刻銅版画
リュイスダールの画の19世紀後半模刻銅版画
リュイスダール「麦畑」19世紀後半の模刻銅版画

リュイスダール「アルベルティナ」のウイーン美術館所蔵作品の
アドルフ・ブラウン(1812−1877 黎明期の写真家)による写真複製です。

場違いですが、参考のために掲載。
ブラウン社発行の絵葉書です。
先頭
・ 1854年には奨学金の終了を予想して、日記に「安い画を描かなければならない」と書き、楽譜に挿画を描き150フラン得ています。5月に恋人が亡くなり、精神的に打撃を受けたようです。ヴァージニアは一人の子供があったようですが、日記からの推測ではブーダンの子供ではなかったようだと文献に書かれています。やはり細かく調べている人がいます。パリを引き払い、農場サン・シメオンに長期滞在しています。
・ 1855年は第一回のパリ万国博覧会が開催された年です。クールベはサロン展に送った一部の作品が拒否されたことに抗議して、独自に展覧会場を設営して個人展を開催します。この過程はいつか機会があったら書きたいと思いますが、政府から万国博覧会の芸術館の隣の敷地を借り正式に許可を得て設営しているので、こういう決定を下すナポレオン三世統治下の政府の余裕と言うか体質が、後に印象派の出てくる下地をつくったのだと思いますが、サロン展は万国博覧会の美術展と合併して開催され、アングルとオーラス・ヴェルネに一室が与えられ、ドラクロワは出品点数は多いものの他の2人の画家と一緒の展示、ルソーはドゥカンと二人で展示されました。コローが最優秀賞を受賞しています。ミレーは3点送りますが2点落選しています。この年、ブーダンの画友ベルトウは「サロン展に関して、去年より悲観的で自分の作品は全部落選し、ミレーやドビニーも一部落選、ボンヴァンも他の画家も同様で、(ブーダンが)初めから棄権したのは賢明な選択だ」と書き送っています。この年初めてブルターニュに旅行しています。
・ 1856年、ベルトウはトロワイヨンのところでブーダンの習作を見たと書き送っています。
・ 1857年、パリで展示会に出品し、そこでデュマ息子が初めてブーダンの画を購入しています。
・ 1858年、前述したようにモネとの出会いがありました。
・ 1859年、サロン展に初めて入選、前述のボードレールとクールベとの出会いがあった年です。
・ 1860年、モネは58、59年とル・アーブル市の奨学金に応募しますが落ち、59年にパリに似顔絵で稼いだお金を持ち、自力で出奔、トロワイヨンの家の近くに滞在、紹介された画家を訊ね廻り、アカデミー・スイスに通い、ジャックの指導を受けるとあるので、この時、モネはジャックからバルビゾンの事を聞かされている可能性があります。モネはブーダンにパリに出てくるよう手紙を書いています。
・ 1861年、ブーダンからパリに出たいと相談を受けたトロワイヨンは「時期が悪い」と返事を出しますが、ブーダンはトロワイヨンを頼ってパリに出て、この時、彼女を伴っていますが、年譜には書かれません。また、コローやドービニーと知り合っています。この年のサロン展には落選。役者出身の画商マルタンに8点の作品を渡しました。画商マルタンとカルスは1848年からの知り合いです。(似顔絵で得たお金だけではパリの生活が続かず、ル・アーブルに舞い戻ったモネは、兵役前に志願すると配属先が選べるので、アルジェを選んで、この年兵役に就くためパリに出て、ブーダンを尋ねています。モネは、ブーダンと同様7年の兵役を引き当てますが、1年しか勤まらず、伯母がお金を払って免除されたことを恥じてか、モネ自身、誤魔化しているので、この時期の伝記に年代的な狂いが生じています。最近の年譜には訂正された年代が書き込まれていますが、多少、曖昧な部分も残っているようです。)
・ 1862年 ブーダンはこの年にヨンキントと知り合いますが、モネを介してと言う文献と、ノルマンディーに画を描きに来るヨンキントと偶然に出遭ったと書かれた文献があります。
・ 1863年1月14日にマリー=アン・デゲとル・アーブルで結婚し、サロン展に「オンフルールの港」が入選しました。ミレーはサロン展に「羊を連れ戻す羊飼い」「羊毛を紡ぐ女」と「鍬の男」を出品、「鍬の男」が賛否両論にさらられました。「落選者展」も15日遅れて分室で同時開催されています。美術史上重要な「落選者展」も、出品しない画家の年譜には記載されないのがほとんどです。ブーダンの年譜にも記載されません。
先頭
1963年9月1日刊の写真複製ミレー「鍬の男」
1863年9月1日、ミレーの「鍬の男」を、版画に替わって写真で複製
写真家ビンガムBINGHAMによって刊行されたものです。

○ いろいろな状況を熟慮し、ブーダンが結婚してパリに居を構え、ミレーの「鍬の男」が賛否両論の批判にさらされたこの時期にこの「写真」が撮られたと査定しました。保存状況で違うと思いますが、1863年9月1日に刊行された「鍬の男」の写真と同様な変色がこの「写真」にも表れているのは偶然の一致とは思えない、同じ長さの時間の経緯を感じました。

少し長くなったので、この年以降のブーダンの年譜は端折ります。機会がありましたら、モネとの関係、クールベとの関係で再度語ることになるでしょう。

・ 1868年に競売所(オテル・ドゥロー)での売りたてが成功し、生活が安定したということです。
・ 1876年頃から作品が売れなくなるとあります。
・ 1881年、印象派を売り出した、デュラン・リュエルと専売契約し、売れない時代が終わりました。これは、デュラン・リュエルが初めてした画廊と画家の近代的な専売契約だということで、ミレーがした契約のように、月1000フランで描いた画を全て渡すというものではなく、画を契約した画廊を通してしか売らないというもので、画廊は画家の画は自分のところ以外では手に入りませんといい、購入者が転売する時も自分の画廊を通し、全て、市場に流通する画家の画をコントロールすることで価格操作もでき、販売戦略もでき、画家は生活が安定し、双方に利益のあることですが、当然、売れる画家である必要があり、ブーダンは必要条件を満たす画家であると認められたことになります。
・ 1889年3月、26年間連れ添った妻がパリで亡くなりました。
・ 1898年8月、ノルマンディーのドーヴィルの家で死去。子がなく、没後に6000点以上の水彩やパステルの習作デッサンがルーブル美術館に遺贈されました。墓地はモンマルトルの墓地の近く、岡を少し後に入ったずっと小さなサン・ヴァンサン墓地です。妻の亡くなった年に墓を建て、最初から片側に妻の名を刻み、自分も一緒に葬られることを想定していたと思われます。そこに、シャルル・ジャックの墓もありました。ブーダンには子がありませんでしたが、ジャックの墓碑銘を見ると子息も画家になり、新たな墓碑銘も刻まれ、子孫は続いているようです。ブーダンとジャックの墓の写真を掲載します。

ブーダンの墓
左側にゲデ(マダム・ブーダン)右にブーダンの墓碑銘
ジャックの墓
ジャックの墓。新たに墓碑銘が刻まれていました。

次回からの展開を時代的にミレーの方に戻すか、ブーダンの先に進めるか、思案しています。

ちょっと反省、一番最初のブーダンの肖像写真と「写真」の人物の比較画像、大き過ぎたかなと思っています。
先頭

著作権について 著作権に関しては充分配慮していますが、万が一著作権に抵触する場合、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を如何に査定したかを物語ったもので、どうしても画像による説明が必要になります。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解をいただき、掲載許可をいただけたら幸いです。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮をいただき、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

ご意見、ご感想をメールでお寄せください。どんな書き方がよいのか、つまり、誰々が写っていることだけ書けばよいのか、寄り道をして、十九世紀の美術界を少し垣間見ることも興味があるのか等です。
enomoto.yoshio@orange.fr
前の章 次の章 索引