ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る
4.バルビゾン村のミレーのアトリエ
1875年、ミレー没年のアトリエの内部 |
それたついでに、ミレーのアトリエから二、三軒先に行ったところに、一時ドービニーの住んでいた家もありますが、ドービニーのアトリエは、ゴッホで有名なオーヴェルニュ(バルビゾンと双璧の、パリ近郊の観光地化した芸術村)で公開されています。前章でミレーがドーミエに手紙で知らせ、遊びに行ったドービニーの家です。最近知りましたが、そこは直系の子孫が管理していますが、入場料を取り、ドービニーのきちんとした小冊子を発行していました。インターネット上には、イール・ド・フランスの観光局のものもありますが、個人のものはカラー写真一葉と簡単な説明だけで、258人目でした。ホームページを始めたばかりなのか?二つを比べると奇妙な気がします。バルビゾンは長い歴史の俗化で、かっての閑静な村の再現は無理と思われますが、何とかならないのでしょうか。オーヴェルニュ村の方が、観光化の歴史が浅く、まだそれほどと思われませんでしたが、急速に変わっていっています。村おこしはどこの国でも同じで、文化遺産の保護と観光化をどのように進めたらよいのか、どんな姿が望ましいのか、問われる問題です。 (右)の写真はバルビゾン村でドービニーの住んでいた家です。 | シャルル・フランソワ ・ ドービニー 1817-1878 風景画家 この家に住む ↑ |
ミレーのリンゴの木 |
ルソーがしばらく住み、ミレーが没した家 |
庭から見たJ・F・ミレーのアトリエ |
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↓ | カトリーヌ サイン拡大 C・ボドメール |
(左)の絵葉書の写真の説明書きは「没年の1875年、画家J-F・ミレーの家のある通り」です。この二葉の絵葉書にはC・ボドメールとサインがあり、カール・ボドメールならばバルビゾンに家があった画家ですが、前掲載の「ミレー没年のアトリエ」にも同じサインがあり、ビリーによれば「没年のアトリエ」は彼の息子のひとりが写したとのことです。C・ボドメールとサインの後にYと数字があるのでミレー没年に撮られた写真が絵葉書になったものは数点あるようです。 ミレーの没年なので黒服を着て喪に服しているのでしょうか。 現在は、煙突の見えるところの家作を取り壊し、未亡人の立っているところを奥に引き、半円形に広場を作り、アトリエへの入口の門戸を作り(後掲載の絵葉書参照)、観光客はそこからミレーのアトリエへ入れるようにしてあります。本来のアトリエの入口は、前掲載絵葉書「ルソーがしばらく住み、ミレーが没した家」に写っている、ひさしが付いた下の両開きの扉がアトリエの入口でした。そして、この絵葉書で、当初は、通りから直接アトリエへの入り口はないことがわかります。とすると、ミレー家の入口はどこだったのでしょうか?考えられるのは、煙突の下あたりに見える入口でしょうか。とすると、そこの家作もミレー宅であったことになります。しかも、バルビゾンに現存する他の画家の家の門と比べると、裏口のような雰囲気です。 |
前記の写真によって、アトリエとはL字になるミレーの住宅が確認できましたが、ミレーが「晩鐘」を描いたとされる家(絵葉書を6章に最初に掲載しましたが、説明上この頁にも掲載)に見られる、二階の張り出し窓の屋根の縁の形の違いや、右側がバルビゾン大通りとすれば、前掲載「没年の未亡人」の絵葉書には細い丸煙突が2本見え、「晩鐘の家」はレンガの煙突なので (絶対的な確信があるわけではありませんが) 絵葉書になっている「晩鐘の家」と「ミレーの家」は別棟と思われます。となると、バルビゾンの大通りに面したもう1軒先の家もミレーが使っていたのか? 「ルソーのアトリエ」のように奥まって別棟があったのか? とすると、貧しい農民画家ミレーのイメージからはほど遠い、広い敷地(前掲載の「庭から見たJ・Fミレーのアトリエ」から想像できる)と数軒の家の所有者になっていたことになりますが、明確にされない部分がまだまだあるように思います。その他、絵葉書を再度調べて、現在の「ミレーのアトリエ」入り口の歩道の敷石が車を入れるために後に低く直されているのが確認でき、車で出入りが可能にした理由を推測すると、このとき、立派な別荘風の家が建てられたのではないでしょうか? ただし、それらはミレー没後の事で、ミレーの人となりにも、芸術にも直接関係のないことです。ただ、後年のミレーがどんな生活環境の中で制作したのか興味があるので、難しいでしょうが、生前のミレーの家の見取り図が頭の中に作れる位には調べようと思います。
| 出窓の比較 晩鐘の家 ミレーの家 |
ミレーの井戸 | 庭から見たミレーのアトリエ |
井戸の側の人物拡大 | 庭の人物拡大 |
「ベルヴュー・エ・ドゥ・ランジェラス」ホテルの庭。左端がミレーの井戸。 | 「見晴らしがよく、晩鐘の」ホテル バルビゾン(セ−ヌ・エ・マルヌ県)-電話・30 ミレーの井戸 |
上に掲載の絵葉書を参照すると、位置は動かしてないと思われますが、大鍋をつるし、植木鉢とし、滑車をを支える鉄柱には豆電球が飾付けてありました。こう言う発想は、トイレ空間に現代美術を置く新世界の人達の感覚に通じ、やはり、長男フランソワが結婚したジェラルディンの出身地、アメリカ的なものを感じるのは個人的な感情でしょうか。この井戸のあり方を通して、いろいろミレーを調べてきた身として、淋しいような、再生、或いは新生と言う言葉でもって、過去の因習に捉われない、新しい生き方、新しい芸術の為にこの井戸の現在を是認したい、そんな気分にもさせられました。なお、絵葉書のホテル「Hotel Bellevue et de l'Angelus」の名称は存在せず、現存するホテルが同じものかの確認はしていません。現存ホテルのサイトを見る限り関連性はないようです。 |
第5章に掲載したブラウン撮影の自画像デッサン絵葉書に、著作権が「ミレーの家」にあるかのように「バルビゾン・ミレーの家」の浮き出し印が押されているのを見つけ、その上、この絵葉書によりアトリエに展示されていることを知ると、もしや、ミレーはこのデッサンを終生身近に置いていたので、アトリエに残されたのか。そんな話は耳にしてないので、確認すると、本物は現在ルーブル美術館のデッサン室に保管されていることがわかりました。つまり、これもドウインの再現企画の小道具の一つと言うことでしょうか。ミレー没年に撮られた写真によるアトリエの再現(下の絵葉書がそうです。第6章の最後に、没年の絵葉書写真との比較を掲載しています)は、指物師による複製画架などでの構成ばかりではなく、ミレー家(多分、ジェラルディン【長男フランソワの没年が判明し、既に未亡人でした】 )がミレーが使用していた家具や多分ミレーが亡くなった時のベットも提供しているので、瀬木氏の指摘のように、無理をして再現したともいえますが、かなり忠実に再現されていたのではないでしょうか。それはミレー家つまりジェラルディンの協力がなければ無理だったでしょう。また、ドウイン版の絵葉書にはミレー家提供の写真が使われ、英文のタイトルも併記されているのは、アメリカ人ジェラルディン・ミレー夫人の翻訳と思われ。以上のことから、ドウインの「ミレーのアトリエ」の小美術館構想はジェラルディン夫人が関わらなければ成立しなかったと今は思います。しかし、大戦を契機に、ジェラルディン・ミレー夫人はアメリカに避難し、その時、小美術館に貸していたミレーの遺品を引き上げたのでしょうか? 美術品の収集に積極的だったナチ・ドイツは戦時中駐留したバルビゾン村では何もしなかったのでしょうか? 独軍のバルビゾン駐留を経た後、再開された「ミレーのアトリエ」は多分、ドウインの再現したアトリエとは違ったものになっていたと思われますが、それに関する記録はあるのでしょうか?等々知りたいことは多々ありますが、霧の中です。 |
まったくの気まぐれで選んだ大通りの脇道の先に墓地があり、何気なく入った中央右にあの見慣れたジャン・フランソワ・ミレーの名の刻まれた墓石を見つけた時は、まったく驚きました。バルビゾン村の墓地で、あるまい事か没年月日を探していた長男フランソワの墓にたどり着きました。パイヤール夫婦に次ぐ二度目の天啓のような気がしました。やっと長男フランソワは1917年4月18日にバルビゾンで亡くなっている事が判明しました。墓誌にジェラルディンの名前はなく、第二次世界大戦の始まる前までジェラルディンはバルビゾンに留まっていた事はビリーの記述にあり、常識的にはジェラルディンによって建てられた墓と思いますが、石に刻まれた墓石面には、妻である、ジェラルディンの名が刻み込まれる場所がありません。その後、戦争を避けてニューヨークに移り、1945年にそこで、93歳で亡くなっていますが、つまり、ジェラルディン・ミレー夫人(マリー・ジェラルディン・リード)は夫と一緒の墓に入る気が、この時既になかったのかもしれないことを想像し、現在の墓のたたずまいと共に、ひどく寂しさを感じました。感傷的過ぎますかね。 |
松方幸次郎が最初に日本に持ち込んだミレーの素描 | 没年1875年のミレーの家 |
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