写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


4.バルビゾン村のミレーのアトリエ



この「写真」はシャイイ・エン・ビエールの旅籠屋シュバル・ブロンの前で撮影されたであろうと、旅籠屋の主人夫婦が窓から顔を出していることによって、ほぼ確定でき、間違いないと認証するためにはその場所の写真を入手し、旅籠屋シュバル・ブロンの前と同じであることを確認すればよいと、撮影場所の選定が出来たところまで漕ぎ着けました。

先を急ぎたいところですが、「ミレーのアトリエ」を見ずに、バルビゾン村を通過するわけには行かず、「ガンヌの宿」から大通りをフォンテーヌブローの森に向かって500メートルほど行った「ミレーのアトリエ」を訪れることにします。

○ 「岩村透が、1891年か92年の12月にパリからムーランまで汽車で、そこから後は馬車でシャイイまで行く通常のコースでバルビゾンを訪れた時の印象を書いている」と、「ミレーとバルビゾン派の巨匠たち展」1992年のカタログ72ページ、「ミレーとバルビゾン派」で瀬木真一氏が書いています。 (2011年11月28日に同行を快諾してくれた若者が出現したので、ムーランからバルビゾンまで、当時の画家を志す若者たちの通常コースだったのではないかと思い、モネ、バジール、ルノワール、シスレーたちのように徒歩行を試みました。この章の最後に追記しましたので、よろしく。)



『 まず村へ入って、第一に感じられたのは、まったく人気のなさで、かたわらでは、鶏が4、5羽、積み藁を引っ掻きまわす音までが聞こえるほどであった。店らしい店はなく、四辻の壁に、競売や近郷の祭礼の広告が張られて、いかにもわびしく、平屋づくりの家並の間の狭い道を進んでゆくと、左方に、珍しく立派な別荘風の家があって、それがミレー未亡人のすまいと知れた。森の入口近くにも、2、3別荘風の家があり、美術家の夏の家かとおもわれ、いくらか、都会的な匂いがしないでもなかったが、しかし、どこもかしこも、閑静をきわめていた。 』(岩村透著)



(岩村透 1870〜1917年 父親は土佐藩士の三男で明治維新では軍監として戊辰の役を平定、佐賀権令を経て、各県知事を歴任した岩村英俊で、その長男として東京、小石川金富町で生まれ、18歳で米国に留学、21歳の時パリのアカデミー・ジュリアンに入学し画家を志したようですが、フランスで知り合っている黒田清輝が弔辞に「惜しむべき天凛の批評家であつた」と書いているように、帰国後は東京美術学校で美術史などを教え、西洋美術の評論家の草分け的存在として、西洋美術の発展に尽くしましたが、糖尿病で48歳で亡くなりました。以上は、インターネットによって得た情報でまとめました。)

「平屋づくりの家並の間の狭い道を進んでゆくと、左方に、珍しく立派な別荘風の家があって、それがミレー未亡人のすまいと知れた。」とある箇所に、ミレー没後のことではありますが、前記した、ミレーが生涯貧乏な農民画家ではなかったことが証明されるように思いますが、いかがなものでしょうか。又、「狭い道」と「左方」とある記述から、現在公開されている「ミレーのアトリエ」のあるバルビゾン村の大通りではなく、ミレーの家の敷地沿いの裏通り、現テオドール・ルソー通りから続くジャン・フランソワ・ミレー通りをフォンテーヌブローの森の入り口に向かって歩いているのではないかと思われます。多分、珍しく立派な別荘風の家とあるのは、後に買い取って広げたのであろう後ろの敷地内にミレーが亡くなった後に新しく建てた家と思われます(想像で、裏付けがあるわけではありません)。しかし、1894年まで生きていた未亡人の住んでいたその別荘風の立派な家はどうなったのか? 13年後に岩村透は再びバルビゾンを訪ねます。



『 ミレーの家はと見ると、アトリエは跡かたもなく、いかめしい鉄の門の大別荘と変り、「蔦かずらは、植込みの忍冬(すいかずら)と籬(まがき)間に握手した」とミレーが記した草木の生い茂るにまかせた庭は、一面の芝生となり、その真ん中にテニス・コートができ、まだ取りこわされていない小部分には、貸家の札!だれが、二度と来るものか。 』(岩村透著。ただし、カッコ内に漢字の振り仮名添付しました。原文にはありません。)



と言うことで、(ちょっぴり解説)未亡人の没後に遺品を競売(この時、ミレーの油彩で唯一の「カトリーヌの肖像」は売りに出され、その後所在不明になっていたのが最近発見され、現在、村内美術館所蔵です)に懸け 、遺族はそれなりの金額を手にし、大別荘を建て、庭にテニス・コートを造ったのではないでしょうか? 私見です。

瀬木慎一氏は「それからさらに80数年たった後の今日」と書き継ぎ、「パリから出る郊外めぐりのバスは、ルソーとミレーの記念碑のある入口に停り、フランス絵画を懐かしむ異国人たちを、装い新たにしたミレーの家へと招じ入れ、どことなく無理をして再現されたことが感じられる当時の画家の生活場面に立ち向かわせる。」と批判しています。

1860年、つまり、46歳で、ミレーは個人的な契約が成立、収入が安定し、以後決して貧困な状態にはならなかったはずですが、サンシエが作り出した貧乏な農民画家ミレーが一人歩きして、画から想像するミレーの画家としての生活場面までそれに合わせて再現して、売り物にしているような気がします。画家ミレーは普通の劣等感も傲慢さも持っていたようで、既にバルビゾンへの移転に家政婦も伴ったとの記述を最近見つけ、サンシエが語らないミレーの一面を改めて問いただすと。教会には冠婚葬祭の時しか行かず、一緒にしたほうが安上がりだと三人まとめて子供の洗礼をし、一般に云う所の宗教画はほとんど描かず、農作業は郷里でしただけで、画家になってからは、ましてバルビゾンではしていないという、パンは家に届けさせ、家に招待するのはパリからの知り合いばかりで、近隣の農家とは付き合いがなかったと言うことです。何故そういう画家ミレーではいけないのでしょうか? パリにもアトリエを持っていたルソーは、子供がなかった分、バルビゾンでの生活は、ミレーより近隣の農家との付き合いは希薄だったのではないかと思われ、他のバルビゾンへ移り住んだ画家たちも似たり寄ったりだったのではないかと想像されます。現代でも、都会人が田舎に家を持った場合、ミレーと同様、生活様式を大きく変えないと思いますが、貧しい農民画家はそうしてはいけないのでしょうか。

・ アトリエを訪ねる前座話として過激でしょうか?

○ バルビゾンのミレーのアトリエを絵葉書で偲びます。

絵葉書、ミレーのアトリエ
1875年、ミレー没年のアトリエの内部
絵葉書はミレーが亡くなった直後のアトリエです。これを再現(現在は絵葉書のように再現されてはいないようです)して美術館として見せていたわけで、岩村透がバルビゾンを訪問した時にはまだ美術館になってなかったようです。彼が書いている「まだ壊されていない小部分には、貸家の札!」が出ていたところだったかもしれません。現在の所有者は、本人がミレーの遠縁に当たると言っているのを小耳に挟みました(聞き間違いのようです。昔、画家であったらしいリシャールと言う館長さんはそれなりに有名だそうで、彼は雇われて管理しているだけのようです。知りませんでした。或いは観光客に対する、リップサービスだったのか?)。アトリエの入場は無料ですが、(【追記】2006/07/23 姪を伴いバルビゾンに行ったところ、ミレーのアトリエは閉まっていて、扉に火曜日と日曜日が閉館と書かれ、且つ、3ヨーロ、現レートで約450円の入場料金を徴収するようになっていました。その昔は)奥は売店になっていて、館長自らが売り子で(最近亡くなったそうで、ネットのページによると、彼を記念したのか、ジョージ・リシャールの名が付いた部屋があり、かってシャルル・ジャックのアトリエで、ミレーの居間の半分を共有していたと説明書きがあり、バルビゾンに移り住んだ当初、ジャックとミレーがアトリエを一緒に使っていたという場所のようですが、今は地方画家の作品展示場として使われています。部屋にリシャール氏の名を冠するのは、何か特別な理由があるのでしょうか?)、観光客はお土産に何がしかのものを買っているようで、ミレーを売り物にしているのがあからさまな様子は、いずれにしろ、あまり感心ができる話ではありませんでした。訪問したのがかなり前で、現在の状況を知ろうと、インターネットで調べると、きちんとホームページがありました。訪ねた時はまだ埃っぽい印象のアトリエでしたが、写真ではかなりきれいになっているようで、ミレーのアトリエ・私立美術館とタイトルにあり、学芸員もいて、支配人と広報係りは同じ人で名前はイタリア人のようです。そう言えば、旅籠屋シュバル・ブロンの主人パイヤール氏も出身はイタリアのようです。話がそれました。
 それたついでに、ミレーのアトリエから二、三軒先に行ったところに、一時ドービニーの住んでいた家もありますが、ドービニーのアトリエは、ゴッホで有名なオーヴェルニュ(バルビゾンと双璧の、パリ近郊の観光地化した芸術村)で公開されています。前章でミレーがドーミエに手紙で知らせ、遊びに行ったドービニーの家です。最近知りましたが、そこは直系の子孫が管理していますが、入場料を取り、ドービニーのきちんとした小冊子を発行していました。インターネット上には、イール・ド・フランスの観光局のものもありますが、個人のものはカラー写真一葉と簡単な説明だけで、258人目でした。ホームページを始めたばかりなのか?二つを比べると奇妙な気がします。バルビゾンは長い歴史の俗化で、かっての閑静な村の再現は無理と思われますが、何とかならないのでしょうか。オーヴェルニュ村の方が、観光化の歴史が浅く、まだそれほどと思われませんでしたが、急速に変わっていっています。村おこしはどこの国でも同じで、文化遺産の保護と観光化をどのように進めたらよいのか、どんな姿が望ましいのか、問われる問題です。
(右)の写真はバルビゾン村でドービニーの住んでいた家です。
バルビゾンのドービニーが住んでいた家

掲示板
シャルル・フランソワ ・ ドービニー 1817-1878
風景画家
この家に住む

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話があらぬ方向に流れているので、戻して。

ミレーの庭のリンゴの木
ミレーのリンゴの木

アトリエの後ろの敷地内に植わっているリンゴの木です。ここらがテニス・コートになったのでしょうか。遠くに庭の境界の塀が見えます。

ルソーがしばらく住み、ミレーが没した家
ルソーがしばらく住み、ミレーが没した家

現在ミレーのアトリエとして公開されている建物を、上記の庭から撮っています。ミレー没年の1875年からそれ程遠くない年に撮られていると思います。タイトルにある、「ルソーがしばらく住み」に注目すると、ミレーより先にバルビゾンに移り住んだルソーが、現「ルソーの家とアトリエ」として史跡になっている家より前に、バルビゾンで借りてしばらく住んだ家を、その後に移り住む事になったミレーが借り、そこがミレーの終の棲家になったことがわかります。

庭から見たミレーのアトリエ
庭から見たJ・F・ミレーのアトリエ

現在公開されているアトリエの後ろの敷地をずっと下がったところから写しているようです。家作が取り壊されているようなので、別荘風の家を建てる前なのか、それにしても敷地の広さに驚きませんか? 田舎ならば普通で、驚くほどではないでしょうか? やはり広いと思います。これはとても貧乏であったとはいえないでしょう。晩年は佳作になり、画が値上がった割には収入が減り、ティロが融通したという話もありますが、それは、お金の使い方に計画性がなく、たまたま手元に現金がなかったというだけで、経済的に破綻していたという意味ではないと思います。
 この絵葉書の写真をよく見ると人物が映っています。後で拡大してみましょう。

○ その前に、二葉の貴重な絵葉書を掲載します。

絵葉書、ミレーのアトリエと住居
   没年の1875年、画家J-F・ミレーの家のある通り         没年の1875年、画家J-F・ミレーの住んでいた家
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   ここに写っているのが、ミレー没年の未亡人カトリーヌということです。


ミレー未亡人
カトリーヌ

絵葉書写真のサイン
サイン拡大
C・ボドメール
(左)の絵葉書の写真の説明書きは「没年の1875年、画家J-F・ミレーの家のある通り」です。この二葉の絵葉書にはC・ボドメールとサインがあり、カール・ボドメールならばバルビゾンに家があった画家ですが、前掲載の「ミレー没年のアトリエ」にも同じサインがあり、ビリーによれば「没年のアトリエ」は彼の息子のひとりが写したとのことです。C・ボドメールとサインの後にYと数字があるのでミレー没年に撮られた写真が絵葉書になったものは数点あるようです。
 ミレーの没年なので黒服を着て喪に服しているのでしょうか。
 現在は、煙突の見えるところの家作を取り壊し、未亡人の立っているところを奥に引き、半円形に広場を作り、アトリエへの入口の門戸を作り(後掲載の絵葉書参照)、観光客はそこからミレーのアトリエへ入れるようにしてあります。本来のアトリエの入口は、前掲載絵葉書「ルソーがしばらく住み、ミレーが没した家」に写っている、ひさしが付いた下の両開きの扉がアトリエの入口でした。そして、この絵葉書で、当初は、通りから直接アトリエへの入り口はないことがわかります。とすると、ミレー家の入口はどこだったのでしょうか?考えられるのは、煙突の下あたりに見える入口でしょうか。とすると、そこの家作もミレー宅であったことになります。しかも、バルビゾンに現存する他の画家の家の門と比べると、裏口のような雰囲気です。
(右)の絵葉書もC・ボドメールのサインがある没年の「ミレーの住んでいた家」ですが、この家と「ミレーのアトリエ」の繋がりがわからず、この絵葉書のミレーの家がアトリエとどのような位置関係で存在したのか、9人の子供たちや家政婦(後に2人の弟もミレーを頼ってバルビゾンに来る)の寝室は何処だったのか、多分この家作は取り壊され、現存しないと思われ確認しようがありせん。
 しかし、ミレーが木炭で描いた「ミレーの家」(当時のバルビゾンの家の菜園でカトリーヌがキャベツの取入れをしているのを三人の娘がすぐ横で眺め、足の悪い長男がすねたように垣根の入口にいる状況をデッサンしている、上野の西洋美術館の基になった松方コレクションをつくった松方幸次郎がいちばん最初に日本に持ち込んだミレーの素描)の屋根の稜線の曲がり具合がこの絵葉書とそっくりで、ミレーのデッサン力に驚かされ、ミレーによって描かれた家と絵葉書の家は同じ建物と断定してよいと思います。そして、ミレーの家の入り口を探した時に、ミレー未亡人が立っている後方に入り口があり、そこではないかと推定しましたが、とすると、前記したように、その先の家が、デッサンと、絵葉書の家に該当すると思われます。
 下に掲載の「ミレーのアトリエ」の絵葉書を検討すると、アトリエに続き二部屋あり、手前に大通りに面し、石段と入口があるのが見えます。多分それはかってジャックの使っていた出入り口ではないかと考えられ、現在は美術館の職員入口として使われていると思われます。従って、上に掲載の絵葉書から、未亡人の立っている左に大きく開いた窓の扉がミレーが使用していたアトリエで、大通りに沿って建っていて、そのアトリエとは繋がってなく、道路と直角に、アトリエとはL字の関係で建っていたのが、住宅で、アトリエとの間の中庭を菜園にしていたのではないかと、想像しました。菜園は絵葉書で花壇になっている場所でしょう。ルソーは現美術館の分館「ルソーのアトリエ」と横にあった、現在チャペルになっている大きな納屋をアトリエにし、広い前庭を所有したように、ミレーもアトリエに隣接する地続きの家作と庭を買い取ったのではないかと想像したわけで、文献による裏付けはありません。現存する「ミレーのアトリエ」ではない、ミレーの描いた素描と、数点の写真に残された「ミレーの家」が、別の家作の存在を示しているだけです。(上の素描の文字をクリックしてもらえれば、デッサンとの比較をお見せできます。)
 Webサイト「画家の村、バルビゾン」に、「アトリエに続いて食堂があり、外に出て、階段を上がったところがミレーの寝室で、1875年1月20日午前6時にそこのベットで息を引き取った」、「1階のアトリエの奥の食堂と言われる部屋の4分の3をミレーの家族が使い、4分の1をシャルル・ジャックが使い、その奥の部屋がジャックのアトリエであった」とあり、そして、「その食堂の4分の3に、ミレーと妻、9人の子供、2人の弟、1人の家政婦が寄り集まり生活をしていたと想像することは感動的である」と(多分、バルビゾン派美術館管理者・カイユ女史により)書かれています。それは、まさに、サンシエの書いたミレーの伝記を踏襲した形の表現で、相変わらず、貧しい農民画家ミレーを強調して紹介しているのは事実に反するのではないかと思われますが、何時の時点で、ミレー家がどの様な生活状態になったのか正確に反論する資料を持ちません。
 しかし、ミレーが描いた自分の家はどう考えても、アトリエに続いた棟だとは考えられません。大通りに面した家だとも考え難く、ミレーが没した二階の寝室につながりようがありません。従って、前記説明した、アトリエと離れてL字をなす棟がかって存在し、こちらの「ミレーの家」に子供等と弟達と家政婦が住んでいたと考えるのが妥当と思えますが、残念ながら、前記した様に納得できる詳細なミレーの家族の居住空間の資料を入手していません。

【重要な追記】2006/04/21 ルーブル美術館に保管されている写真に「バルビゾンの大通り − ミレーの家と敷居のところに居るミレー未亡人」があり、前掲載のミレー未亡人の写っている絵葉書の後方にある入口が間違いなくミレーの家の敷居でした。従って、アトリエとはL字の位置でミレーの家が存在した事が明確になりました。(確認したい人は、フランス国立美術館連合RMNの画像サイトhttp:www.photo.rmn.fr でホームページが開いたら、上の2行目、ほぼ真ん中にある赤字のRecherche をクリック、開いたページの Text libre の空白に millet と入力、Fondsで Photographies を矢印でブルーに反転させ、一番下の3つの黄色い文字の真ん中、Rechercher をクリックしてください。30点のイメージにアクセスでき、その中に「ミレーと母親(現在「ミレーの弟と妹」に変更)」もあります。3ページ目の真ん中に「敷居のミレー未亡人」の前記写真を見つけることができるはずです(場所は変更されるので、各自探してください)。画像をクリックすれば、拡大してみる事が出来ます。このホームページに掲載する為には著作権料を払わなければならないので、興味ある人は各自で確認して貰うことにしました。「ミレーの家」の写真もありますので捜してみてください。

前記の写真によって、アトリエとはL字になるミレーの住宅が確認できましたが、ミレーが「晩鐘」を描いたとされる家(絵葉書を6章に最初に掲載しましたが、説明上この頁にも掲載)に見られる、二階の張り出し窓の屋根の縁の形の違いや、右側がバルビゾン大通りとすれば、前掲載「没年の未亡人」の絵葉書には細い丸煙突が2本見え、「晩鐘の家」はレンガの煙突なので (絶対的な確信があるわけではありませんが) 絵葉書になっている「晩鐘の家」と「ミレーの家」は別棟と思われます。となると、バルビゾンの大通りに面したもう1軒先の家もミレーが使っていたのか? 「ルソーのアトリエ」のように奥まって別棟があったのか? とすると、貧しい農民画家ミレーのイメージからはほど遠い、広い敷地(前掲載の「庭から見たJ・Fミレーのアトリエ」から想像できる)と数軒の家の所有者になっていたことになりますが、明確にされない部分がまだまだあるように思います。その他、絵葉書を再度調べて、現在の「ミレーのアトリエ」入り口の歩道の敷石が車を入れるために後に低く直されているのが確認でき、車で出入りが可能にした理由を推測すると、このとき、立派な別荘風の家が建てられたのではないでしょうか? ただし、それらはミレー没後の事で、ミレーの人となりにも、芸術にも直接関係のないことです。ただ、後年のミレーがどんな生活環境の中で制作したのか興味があるので、難しいでしょうが、生前のミレーの家の見取り図が頭の中に作れる位には調べようと思います。
出窓の比較

晩鐘の家
晩鐘の家

ミレーの家
ミレーの家
ミレーの家の通り側の煙突


【晩鐘を描いた家の場所発見】(2012/05/09) 今回、偶然、上に掲載の「庭から見たJ・F・ミレーのアトリエ」と同じ絵葉書を見つけ、なんとなく今回の絵葉書の方が鮮明に思えたので、購入し、拡大鏡で眺めていて、ミレーの井戸を見つけました。(改めて、井戸の項に記載、クリックで飛ぶ) そんなことで、所蔵絵葉書を再検討することにしました。バルビゾンの絵葉書を繰り返し眺めていて、今まで気付かなかった意外な発見をしました。一番古い「ミレーのアトリエ」の絵葉書に存命中(etat de son vivant)と書かれているのに気付き、1875年以前に撮られた写真を絵葉書にしているということで、特に念入りに眺めた後、絵葉書「晩鐘を描いた家」を見て、気付いたのが、下に掲載の図版の赤鉛筆で示した部分です。未亡人カトリーヌが写っている絵葉書にはレンガの煙突が隠れてほとんど見えませんでしたが、同じ場面を写したこの絵葉書で、レンガの煙突が確認でき、「晩鐘を描いた家」の屋根の段差の白い部分と、一番古い「ミレーのアトリエ」の絵葉書のアトリエから二軒目の屋根にある白い線が同じ屋根の段差の境目であると(屋根の段差とレンガの煙突の位置関係を踏まえて)検証できると思います。従って、「没年の1875年、画家J-F・ミレーの住んでいた家」の後ろ側に当たる、下に掲載の絵葉書でみれば、アトリエから2軒先にある家を「晩鐘を描いた家」としてよいと思います。

 (追推考(2013/01/22)、「晩鐘を描いた家」の絵葉書はぼかしを使っているので、余分と思われる、例えば、ミレーのアトリエの絵葉書には写っている、隣接棟のレンガの煙突等を消して余白にしているのではないかと思います。でなければ、隣家の屋根より高く出ているレンガの煙突が写っていないのはおかしと思えてきたからです。この考証も時間がたつと自信が薄れます。絵葉書での推考を確定事項としていいのかという疑問も生まれます。蔦か何かの葉に隠された段差の付いた屋根の幅も気になります。僅かの段差なので、ミレーのアトリエの絵葉書にはただの白線として写っているように見え、立体的な差が見られません。ならば、取り消すべきかといえば、レンガ煙突の形や向き、撮影角度や後処理などを考慮し、要点を統合し、再再考しても、充分に第三者の審判に耐え得ると思うので、掲載します。しかし、このサイトに取り上げている「写真」同様に、あくまで個人的結論であることをご考慮ください。)

ミレー生前のアトリエ
バルビゾン、フランソワ・ミレーの住居とアトリエ(彼が存命中の)

晩鐘の家と大通りからの景観検証
赤鉛筆の部分の比較を検証ください。かなり貴重な発見ではないでしょうか。


これで、現存するアトリエに続く、L字に隣接して建っていた二棟の家をミレーは所有し、そこに家族、及び二人の弟、家政婦を住まわせ、また、一部をアトリエとしても使用していたと考えられます。そして、晩年のミレーは現存するアトリエのある棟を家賃代わりに、画やデッサン、銅版画等の彼の作品を渡すことで、サンシエから借り続け、上を寝室として使い、そこで亡くなり、家族は下を食堂兼喫茶室(サロン)にしていたという話です。そして、先に掲載した絵葉書「ミレーのりんごの木」の庭から判るように、それらの棟に付属するかなり広い庭を所有したであろう事が絵葉書「庭から見たJ・Fミレーのアトリエ」により確認されます。そして、ミレー没後、遺産相続をしたミレー未亡人及び長男により、岩村透が見たように、現「ミレーのアトリエ」の庭のずっと奥、ジャン・フランソワ・ミレー通り側に、立派な別荘風のミレー未亡人の住まいが建てられ、その後、いかめしい鉄の門の付く大別荘に変ったのではないでしょうか。




○ 前記、岩村透が二度目(13年後が正しければ1904年か1905年)にバルビゾンを訪ねた記述に、「アトリエは跡かたもなく」「まだ取りこわされていない小部分には、貸家の札!」とあるので、二葉の絵葉書に登場願いました。ミレーのアトリエの入口にも注目して下さい。

絵葉書二葉、「ミレーのアトリエ」
(左)も(右)もタイトルは バルビゾン−大通り−画家 J−F・ミレーのアトリエ です。

↑(左)の絵葉書には裏に切手が張ってあり消印は1903年です。撮影年代は正確にわかりませんが、バルビゾンまで小鉄道が敷かれたのが1899年で、敷設後、消印の1903年迄の間に撮られた(岩村透がバルビゾンを再訪する少し前と思われる)写真で、バルビゾン大通りのミレーのアトリエと解説されています。左端に2段の石段の入口が見えますが、かってのシャルル・ジャックのアトリエの出入り口でしょう。その先の「ミレーのアトリエ」の入り口の歩道の縁石が低くなり、車等の出入りがしやすいようになっているのも確認できるでしょう。

→↑(右)の絵葉書は残念ながら消印は読み取れず、年代を確定できませんが、郵便法が変わったのか、切手が変わり、絵葉書の裏は住所記載だけだったのが、通信欄が付いています。これは1903年以降と年代を確定できますが、同じ発行元の同時期に発行された、様式が同じ絵葉書の使われた年代から推測して、1906〜8年以前、絵葉書の様式の変化した1903年以後とすると1903、4、5年頃の撮影と思われ、前掲載の1903年以前の写真絵葉書と同じに「ミレーのアトリエ」と説明されていますが、前の写真にはない、建物の壁に、はっきりと「ミレーのアトリエ」と書かれた表示板が見えます。窓の戸板には訪問者のためにと書かれ、その下の文字は読み取れませんが、窓にはカーテンがかかり、人が住んでいる様子が伺え、「ミレーのアトリエ」として、かなり早い時期から訪問者を受け入れていた事がわかります。

従って、岩村透はこの二葉の絵葉書の写真の間にバルビゾンを訪ねたことがわかりますが、13年前に訪ねた時はミレー未亡人は健在で、ミレーのアトリエについて語らず、13年後にはアトリエは跡かたもないと書き、庭は、一面の芝生となり、その真ん中にテニス・コートができていると書いているので、裏道から、ミレーの家を見ていると思われ、再びジャン・フランソワ・ミレー通りから見たミレーの家ということになり、「ミレーが使っていたアトリエ」がどの場所であったかまったく知らなかったことになります。大通りを歩いていたら、当然、絵葉書に写っている看板が目に入るはずですから、「アトリエが跡かたもない」とは書かないはずです。岩村は昔の「ミレーのアトリエ」がどこかは知らなかった、そんなことってあるのでしょうか? それとも、ミレーの家の入口は元々裏通りの方にあったのか? 絵葉書「ミレーのリンゴの木」から推測し、田舎の家に特別に門が存在したかの疑問も生じます。しかし、便宜上、出入り口は大通りにもあったと思いますが、ミレーが亡くなった後、カトリーヌは家を建て替え、その時に、出入り口を大通りから、裏道の方に移し、きちんとした門を造ったのか? 岩村透はパリで人からそのように教わり、最初のバルビゾン訪問に、すぐとミレー未亡人の住む別荘風の家を見つけられたのではないでしょうか。想像は想像を刺激します。もしかして、ミレー没後、間なしに裏通りはジャン・フランソワ・ミレー通りと命名されていて、岩村透は迷うことなく、その道を通り、かって見つけたミレー未亡人の別荘風の家も、傍らのアトリエも取り壊され、大別荘になっているのを見たのでしょうか?(【2012/04/09 追記】ミレー家の家系図によると、ミレーの長男フランソワは48歳の1897年に結婚しています。岩村透の1度目の訪問の時はまだ結婚していず、ミレー未亡人カトリーヌ没後に正式に婚姻届を出しています。したがって、岩村の1度目の訪問時に見たアトリエはミレーの長男フランソワのアトリエだったかもしれません。それも、2度目の訪問の時には取り壊されていたということでしょうか。) 岩村透は、本当に「ミレーが使っていたアトリエ」がどこであったかはっきりと確認していなかったのでしょうか。それにしても、現在手元にあるこの絵葉書は当時バルビゾンで売っていたと思われますが、岩村透は「店らしい店はなく」と書いているので、バルビゾンになくても、手前のシャイイか、でなければ、乗り換えの駅、ムーランで売られていたと思われます。事前にこの絵葉書を見ていれば、アトリエは跡かたもないという話は成り立ちませんが、しかし、画家として、観光用絵葉書などには目もくれなかったということは充分ありうることですし、ミレー未亡人のすまい近くにアトリエが建っていれば、それをミレーのアトリエだったと思って不思議はないでしょう。今ひとつ、岩村透は2度目のバルビゾン行きにはムーランから単線の汽車を利用しなかったのでしょうか。当時既にムーランからバルビゾン村の外れ、フォンテーヌブローの森の入り口までトラムウエイが走っていました。岩村透はバルビゾン村の入り口で降りて、最初来た道をなぞったのでしょうか。記載がないので想像するしかありませんが、ミレーのアトリエが取り壊されていることを知った岩村透は早くバルビゾン村から離れたかったので、貸家の看板を見ただけで早々に引き上げ、帰り際に「二度とくるものか」と実際に叫んだのではないでしょうか。ミレーを尊敬していたとすれば、その気持ちはよく分かります。

  (追記) 大通りに面したミレーのアトリエの表示板が取り付けられたのが何時か正確にわからず、岩村透がそれを見る可能性の有無を断定できないので、その部分を棒線で消去しました。しかし、彼の記述から、現存する「ミレーのアトリエ」を知らなかった事は明白です。唯、後に取り壊されてしまい記録として残らない、別のミレーのアトリエが当時まだ残されていて、岩村透はそれを「ミレーのアトリエ」と書いているのかも知れません。当時はこのアトリエ以外にも、ルソー同様、ミレーにも、「晩鐘」を描いたアトリエや、納屋のアトリエなどあったはずですから。しかし、それらは家宅と共に跡形もなく取り壊されてしまい、存在した事さえ人々の記憶から消え去り、今は誰の口に端にも上らなくなってしまっているのでしょう。そして、取り壊されずに残された「ミレーのアトリエ」がどんな経緯で、小美術館として公開されたかは、もう少し、アトリエの周りを歩いた後で、ビリーによる「バルビゾンの好日」に戻り、そこでで検討し、調査結果を報告しましょう。



○ 次に、人物の写っている絵葉書、及び、その拡大写真をお見せします。二葉とも、ミレーの庭で撮られています。

絵葉書「ミレーの井戸」
ミレーの井戸
絵葉書「ミレーの庭」
庭から見たミレーのアトリエ
絵葉書の人物拡大
井戸の側の人物拡大
絵葉書の人物拡大
庭の人物拡大
(左)の絵葉書で、ミレーの庭の井戸水をくみ上げているのは、前載同様に、もしかして、ミレーの未亡人カトリーヌでしょうか?
 改めて拡大してみると、かなりあごがしゃくれていますが、内村美術館所蔵のカトリーヌの肖像を参照すると、あごはかなり出ているのがわかります。この井戸は右の絵葉書には写っていず、位置の再確認はできませんが、ミレー没後間もない絵葉書と思われ、9人の子供を産んだ、50歳前後の彼女の歯がかなりぼろぼろになっていれば、口元が退き、あごがかなりしゃくれて見えてもおかしくはないでしょう。鼻が短く、上向き加減なのが、横顔から確認でき、やはりミレー未亡人カトリーヌであると思われます。ブラボー!

(右)の絵葉書を拡大してみると、二人の女性が話しているような感じから、最初、ミレーのアトリエを訪問した観光客と思いましたが、前掲載の二葉の絵葉書から推測して、ミレーの遺族とは考えられないでしょうか? とすると、髪の白い老婆はカトリーヌ、彼女に話しかけている、帽子をかぶったモダンな感じの女性は? そして、シルクハットをかぶってイスに腰掛けている男性は?
 ミレーの子供達のことはほとんど語られていませんが、長男フランソワについて「もし天才である父親が、彼が自由に呼吸する事を妨げなければ、芸術家として大成したかも知れないが、金が無かったので奇形の足の手術が出来なかった為、彼の性格は陰気なものになってしまった」そして、「ミレーの名前を名乗れると思い込む金持ちのアメリカ女性と彼は結婚した。そのジェラルディン・ミレー夫人は1939年の時点でまだ存命している。」とビリーが書いています。
 そんなことから、モダンな若い女性は嫁ジェラルディン、腰掛けているのは足の悪い長男フランソワ、髪の白い女性は、あまり白いので、白いキャップをかぶっているのではないかなどと思いましたが、絵葉書のミレー没年のカトリーヌ未亡人の髪型を改めて眺め、ミレーによる、カトリーヌの肖像画、及び肖像デッサンを引っ張り出して、見比べると、髪型が同じです。肖像写真を調べた経験から、髪型が若い時からほとんど変わらないのをしばしば見ます。愚考し、変えないのは、それが一番自分に似合っていると思っているということと、結い慣れているからではないかと思いました。そこから、この女性が、白髪を後ろで丸く束ねている様に見えるので、彼女をミレー未亡人カトリーヌとし、ミレーの遺族が写っていることの推定に、確証を得たように思いますが、残念ながら、井戸の水を汲む婦人の髪型がちがうので、両絵葉書の拡大人物、特にカトリーヌに関して、文献での裏づけがありませんが、ボドメールの絵葉書写真のモデルになっているので、一度あることは二度あるの類で、三度あった可能性は充分あると思います。尚、絵葉書は「庭から見たミレーのアトリエ」と題され、その下に少し小さな字でA・ドウイン(Douhin)発行(全権利保有)と明記されています。

ここで、前言を多少修正しなければならないこと感じます。つまり、「フランソワが金持ちのアメリカ女性と結婚した」ので、岩村透が見た、大別荘は、未亡人カトリーヌが亡くなった後、相続した長男が自分の土地に奥さんの資金で建てたものかもしれないからです。婚姻届を出したのがカトリーヌ没後3年の1897年です。ビリーの文章から、カトリーヌ没後に婚姻届を出す理由に、大別荘はジェラルディンの出資で建てられた可能性を見てしまいました。

 書き足しです。
ミレーの井戸に関して、新たな絵葉書が手に入り、前記の事情に付け加える必要が生じました。まず絵葉書を掲載します。

ホテル・ベルヴュー・エ・ドゥ・ランジェラスの絵葉書、ホテルの庭にミレーの井戸があります。
「ベルヴュー・エ・ドゥ・ランジェラス」ホテルの庭。左端がミレーの井戸。
左の絵葉書の説明書き
「見晴らしがよく、晩鐘の」ホテル
バルビゾン(セ−ヌ・エ・マルヌ県)-電話・30
ミレーの井戸

ホテルが発行したこの絵葉書を考察すると、ミレーの所有していた家作を取り払い、別荘風の家とアトリエを建て、ミレー未亡人が住んだ後、長男夫婦が大別荘を新しく建て、庭の一部をテニスコートにし、その後、そこはホテルになったのではないかと推測されます。結局、ミレーの井戸は保存され、ホテルの庭にあり、ホテルの名は、当時はまだ家が立ち並んでいず、ミレーが「晩鐘」を描いた雰囲気がどこかに残っていたのか、「晩鐘」を描いた場所と言う伝承にちなんで付けられたようです。井戸の後に見える二本の樹が前掲載絵葉書に見える樹かも知れません(樹木の生長を考えると大いにありえます)。頭の中で、絵葉書「ミレーの井戸」とホテルの絵葉書と「庭から見たミレーのアトリエ」の絵葉書を立体再構成すると、おぼろげながら、ミレーの井戸の位置が見えてきます。「庭から見たミレーのアトリエ」の絵葉書に写っていないということは、その左側の先にあったと思われ、「ミレーの家」の絵葉書の家作(前記したとおりの位置)が取り壊され、その奥にこの井戸があったのであろうと推測されます。(今回【2012/05/09】 の新たな「庭から見たミレーのアトリエ」の絵葉書により、井戸の場所が確認でき、先や奥ではなく、ずっとアトリエ寄りにありました。また、ミレーが「晩鐘を描いた」アトリエの場所も推定でき、その家作を取り壊した後に建てた大別荘をホテルにしたので、その「縁えにし」にちなんで「晩鐘」という名称を使ったと解釈した方が、史実的ですね。) ミレーの井戸が現存するかどうかは分かりません。

【追記】  ミレーの井戸の存在が確認できたので報告します。
「ミレーのアトリエ」私立美術館に隣接するホテルへの入口、大通りから少し入った、それも通りから見える所に残されていました。下がその写真です。

現存する「ミレーの井戸」  
上に掲載の絵葉書を参照すると、位置は動かしてないと思われますが、大鍋をつるし、植木鉢とし、滑車をを支える鉄柱には豆電球が飾付けてありました。こう言う発想は、トイレ空間に現代美術を置く新世界の人達の感覚に通じ、やはり、長男フランソワが結婚したジェラルディンの出身地、アメリカ的なものを感じるのは個人的な感情でしょうか。この井戸のあり方を通して、いろいろミレーを調べてきた身として、淋しいような、再生、或いは新生と言う言葉でもって、過去の因習に捉われない、新しい生き方、新しい芸術の為にこの井戸の現在を是認したい、そんな気分にもさせられました。なお、絵葉書のホテル「Hotel Bellevue et de l'Angelus」の名称は存在せず、現存するホテルが同じものかの確認はしていません。現存ホテルのサイトを見る限り関連性はないようです。
(ここにも2006/07/23の追記をしますが、短い間に様変わりしていました。ミレー公園と表示があり、子供の遊園地のようなものができ、遊歩道になっていて、奥に館と称するホテルのようなものがあり、果たしてそれは、かってのミレーの長男の家だったのでしょうか。大通りに面して、「ランジェラス・晩鐘」と言うレストラン喫茶がありますが、ミレー存命時の彼の所有した敷地はますます妙な状況になっているようです。いっそのこと、第二次世界大戦の爆撃で崩壊したグリュシー村のミレーの生家の様に、かってのミレーの家がどんなものだったかを文献で調べ、忠実に再現してみたら、面白いと思いますが、礼拝堂になった、ルソーのアトリエ同様、天災か人災で昔のミレーの全敷地内の建物が崩壊しなければ、現実に再現など不可能な事でしょう。せめて、史実に則った説明板などが設置されたらと思いますが、貧乏な農民画家のイメージが壊れかねない、そんな提案は採用されないと思います。このままでは、観光化に流されたバルビゾンは、岩村透が「だれが、二度と来るものか」と言ったように、どこかで歯止めをかけなければ、美術史上貴重なバルビゾン派を生んだ村も、無残なものになるような気がします。2006年07月23日の時点で、井戸の石積みの一部が崩壊していました。要らぬお世話でしょうが、せめてそこに「ミレーの井戸」の表示くらいつけたらと思います。悲しい気持ちになりました。その後、2011年11月28日の徒歩行の時には公園の表示も遊園地も遊歩道も雲散霧消していました。


【ミレーの井戸の位置発見】(2012/05/09) 前記したように、新たな「庭から見たJ・F・ミレーのアトリエ」を入手し、以前の絵葉書と比較すると、この方が初期の絵葉書であることが画面の大きさから判断できると同時に、少しだけですが、鮮明な気がします。と同時に、拡大した時、以前、気付かなかった、井戸が樹の間に遠景として写っていることがわかりました。その奥に、2、3棟の家が写っていますが、「ミレーのアトリエ」からかなり離れて見えるので、それがミレーの家作かはわかりません。ただ、現在「アンジェラス(晩鐘)」と言う名のレストランが「ミレーのアトリエ」の隣にありますが、前記したことが正しければ、家の向きが違うので、ミレーが「晩鐘を描いた家」ではなく、新たに再建された家であることになります。では、確定した井戸の位置を示す、画像を下に掲載します。

新たな絵葉書
画面が一回りだけ大きく、画像が少しだけ鮮明です。

部分の拡大
赤丸をつけたところに井戸の石積みが見られます。息子フランソワの姿も明瞭でしょう。 戻る





ここで再びビリーの「バルビゾンの好日」に戻ります。
 最近再版された新しい本を書店で見かけましたが、「バルビゾンの好日」には、ガンヌの宿、ルソーのアトリエ、ミレーのアトリエに関するあまり知られていない情報が書かれています。何処まで事実か? 前出、現バルビゾン派美術館管理者カイユ女史によるWebサイトに取り上げられていないこともあり、その是非の判断は読後、この「写真」に対する是非と共に皆様にお任せします。

○ ビリーは彼の友達だというシャブー(「昔、会計士で梱包係りで編集者で挿絵師で前夜祭の主任で、残念なことに消滅してしまった道で、社会奉仕の典型的な人間」とあり、訳の下手さは勘弁してもらって、ビリーが友達と書く割には正体不明で、公立バルビゾン派美術館のWebサイトに名前の記載はありませんが、ビリーの創作とも思えず、彼が何らかの役割を果たしたと思いますが、裏方に徹し、表に出ないタイプの人物なのか、昔、町内に一人ぐらいはいた世話好きとでも考えたらよいのでしょうか?或いは名を抹殺されるようなことをしたのか?)は「ガンヌの宿」の私設美術館の管理者であり、いくつかは彼から聞いた話として書いています。

それにしても、「ミレーが亡くなった時に彼が使用していたアトリエの持ち主はサンシエであり、ミレーは家賃を、画やデッサンや銅版画で払っていた」とビリーが書いていますが、事実とすれば、かなりの驚きです。一つ考えられるのは、サンシエが困窮していたミレーを助けるため、善意で、アトリエの持ち主から買い取り、家賃代わりに画やデッサンや銅版画で支払えるように取り計らったと考えられますが、その裏にはサンシエの思惑が仄見えます。何故なら、ほぼ同じ世代のコローが困窮していたドーミエのため大家から家を買いプレゼントしたエピソードがありますが、サンシエは、ミレーから作品を得るために、後年は買い取るだけの経済力はあったと思いますが、ミレーに家を買い取らせず、ましてプレゼントはせず、ミレーも作品で家賃を支払う方が、お金をためて買い取るより面倒でなく、両者の考えが一致していたためと思いますが、賃貸契約が継続していたのではないかと推測され、サンシエが亡くなって、遺族が家賃代わりに受け取った「ミレーの作品を売った総額が42万フランになったので、ミレーの子供達は父親の遺産をそれぞれが1万フランしか相続していないので、サンシエの娘マルゲリットとの仲が悪くなった」とビリーは書いていますが、土地や株などの値上がりよりは、ミレーの画の方がよほど高騰したでしょうから、二年の差とはいえ、充分有り得ることで、いかにサンシエが財蓄に長けていたかがわかります。
 「ミレーのアトリエ」がサンシエの所有であった事を確認するために、「バルビゾンの好日」の彼らが初めて移住したページに戻って読み直してみると、「バルビゾンの大通りの隣り合った二軒続きを彼らが借り、ミレーの家の家賃は1年で160フラン、ジャックは彼らの(家の)買主になった。彼はまもなくサンシエに転売した。」とありました。従って、サンシエがミレーのアトリエを買い取った相手はジャックだったわけです。今まで何処にも書かれていず、二重の驚きです。辞書片手に読んでいると、重要と思われる部分以外はかなり手抜きして読み飛ばしてしまうので、今回のように重要なことを読み落とす事があり、大いに反省します。Webサイトで知った、ジャックの雉の飼育やアスパラの栽培、家具の製作の事も多少違いますが書かれていました。その他、土地を買い、転売したり、本を書き、挿画をし、新聞に寄稿しとあらゆる収入の試みを都会人の感覚で遂行するジャックとミレーがいずれ気まずくなるのは時間の問題だったようです。
 再度ミレーの個人生活に立ち入りますが、ミレー家は、9人の子供に加えて二人のミレーの弟(それに家政婦)と言う大家族になったので、現在の「ミレーのアトリエ」私立美術館の住居部分だけに彼等が住まっていたとは考えられず、画が売れ臨時に収入があった折に、地続きの家や納屋、庭を買い取ったのではないかと思っていました。従って、現「ミレーのアトリエ」がサンシエの所有であったことはまったく驚きです。余談になりますが、シャルル・ジャックが25年間(未確認。「ガンヌの宿の移転先がジャックの所有地であった」とある記述より)バルビゾンの土地を所有していたのか、継続して所有していたのではなく、かってジャックの所有地であったと言うだけの説明かもしれませんが、何れにしろ(二十世紀の概念芸術の祖、マルセル・デュシャンのように)、ジャックは不動産業や、画商まがいの副業をして収入を得ていた可能性は充分あるように思えます。ミレーにしても、後に弟ジャン=バティストは画家として、オーヴェールに移り住み、その下の弟ピエールはアメリカに渡り、木彫家になったということで、ミレーは自分の画の写真を集め、アメリカに画の売込みを計画したとかの話もあり、浮世絵の蒐集を競売に懸けたとか、それなりに収入の道を探したようなので、ミレーだけが、経済観念がなく、土地の所有に興味がなかったとは考え難いと思いますが?
 ビリーの語る話に戻し、「サンシエの没後、彼の父、マルゲリットの祖父ロベールが彼女を育て、料理人と再婚した祖父は、彼女の連れ子レイネと十五歳のマルゲリットを結婚させましたが、新たな法律により、レイネは恋人と、マルゲリットは葡萄酒の問屋業者デュアメルと結婚し直し、このデュアメルがミレーのアトリエをひどく変えた」とビリーは書いています。従って、サンシエ没後もずっとサンシエの遺族が所有していたことが知れます。ここで、岩村透が見た「貸家」の看板を再考すると、サンシエ家に戻された「ミレーのアトリエ」は、その後、サンシエの娘が相続し、結婚相手のデュアメルがひどく変えてしまい、ドウインが小美術館を開設するまでの間に、一時的に貸家の看板を出していたかも知れませんが、数葉の絵葉書で考証するとその可能性は少ないでしょう。 
 続いて、ミレーの未亡人カトリーヌと長男と結婚したアメリカ人、フランソワ・ミレー夫人ジェラルディンの話になり、「金持ちで、美人で、知的で、文学的で、かなり、姑のミレー未亡人を戸惑わせた」とありますが、当然でしょう。
 (追記(2013/01/22)カトリーヌはバルビゾンではなく、4女のエメリーの住む、シュールスネ〈オー・ド・セーヌ市〉ブローニュの森のセーヌの対岸の町で亡くなっています。ビリーが戸惑わせたと書く理由は、カトリーヌの晩年は実の娘が面倒を見たという事なのでしょうか? 推測ばかりの書き方は感心できませんが、たまたま娘の家に遊びに来ていて、急に脳溢血か心筋梗塞、或いは事故で亡くなったとも考えられず、他に誰も書き残こしていないので、ビリーの「戸惑わせた」を基に、一般的に考えられる嫁と姑の関係から推測しました。)
 ビリーは書き継ぎ、ジェラルディンが夫である長男フランソワをアメリカに連れて行った話を書いています。「フランソワは情熱的で陽気で好意的な妻と反対で、陰気に不機嫌に過ごし、ニューヨークで一番有名と自慢していた2、3点のミレーの収集作品を見て、全部贋作だと表明し、急ぎフランスに帰国することにし、船に乗るまで、ベットからでないと断言しました」。それは、フランスの田舎バルビゾン村から来た彼がアメリカの大都会ニューヨークで起こした波紋に自分で驚いてしまったからかもしれません。「フランソワは足が悪く、二本の杖を突きながらも、馬に乗っていたので、ジェラルディンは乗馬は疲れるからと売り飛ばし、フランソワが父親の遺産として大事に保存し、自分のアトリエとして使っていた納屋を、彼の居ない旅行中に取り壊し、弟のシャルルに設計させた素晴らしいアトリエを庭の奥に、短期間で建てた」と言うことですが、「フランソワは一度も使わず、もう一つの納屋、今日理髪店になっているアトリエを使用した」と、天才ミレーの遺族のその後を書き留めています。長男フランソワはかなりひねくれた性格のようですね。岩村透が間違えたアトリエは、ジェラルディンが夫フランソワの為に建てたけれど使われなかったアトリエだったのかもしれません。したがって、岩村の2度目のバルビゾン探訪の時に、このアトリエが取りこわされて跡かたもなくなっていたと言うことなのでしょうか。(2013/01/22)これらの記述から、振り戻ってみて、ミレー没後、子供たちは1万フランずつ遺産を貰ったとあるので、この時点では9人の子供は欠けていず、合計で9万フラン、(日本の法律を参考に)同額をカトリーヌが受け取り、長男とあわせて10万フランその資金を基に、金持ちのアメリカ人の実質的な嫁ジェラルディンの主導の基、建築家の次男シャルルの設計で別荘風な未亡人の家が建てられ、それが、カトリーヌの没後に、彼女の肖像画など、残されたミレーの作品の競売で得た金額と、正式に結婚し、ミレー夫人を名乗る長男フランソワの妻ジェラルディンの資金により、大別荘に建て替えられたという推測は、かなり事実に近い気がしますが、いかがでしょう。ビリーと岩村透の記述と日本の遺産相続法から組み立てたので参考程度です。
 従って、ミレー没後の絵葉書で、庭に三人が写っている内のシルクハットをかぶっている紳士は、「長男はあまり人前に出たがらなかった」とビリーは書きますが、私的な庭での撮影とすれば、椅子に腰掛けているのは足の悪い長男フランソワと推定できると思います。
 ただし、1882年生まれのビリーが同じ世代に生きていたわけはないので、当時を知る人からの聞き書きで、これらの話がすべて事実か確認できず、参考程度でしょうが、岩村透の話と合わせ、上に掲載の絵葉書に写っているのが彼らだとすると、見えてくるのは、ミレー没後、喫茶室として使用していた現存するミレーのアトリエを早々に遺族はサンシエに返却し、地続きに購入していた敷地内の家作を取り壊し、別荘風な家に建て替えたとというのが一番妥当な推測と思われます。逆に、現存する「ミレーのアトリエ」は、(幸いにも?ミレーの遺族の所有ではなかったために取り壊されずに残ったという事ではないでしょうか。

そして、ミレー没後47年経った1922年に、ミレーが亡くなった時にカール・ボドメール(前出、画家の名前の綴りはKarlなのでビリーの書いているように)の三人の息子の内の一人が撮った、没後のミレーのアトリエの写真を見たアンドレ・ドウインは観光客を呼ぶために、ミレーのアトリエを再現して小さな美術館にする計画を立てました。「近所の指物師に幾つかの家具、特に写真と同じに画架を作らせました。」そして、ミレー家は「食器棚とミレーの寝台を貸してくれた」と言うことはミレー家、つまりジェラルディンもアトリエを小美術館にすることに賛成だったわけです。この段階で、アンドレ・ドウインと言う人物が、この「ミレーのアトリエ」の所有者になったかどうか、ビリーは書いていませんが、多分、ディアメルから買い取ることで、アトリエの復元に力を入れたのではないでしょうか。理由として、ミレーのアトリエをひどく変えたディアメルのために、また、仲が悪くなったサンシエの娘マルグリットのためにミレー家を代表するジェラルディンがドウインに協力するかと考えると、所有者が変ったので協力する気になったと考えほうが自然に思えるからです。戻る
 ここでしつこく三人が写っている絵葉書について、それがドウインによって発行されていることを考えると、復元時期に撮られた写真とも考えられますが、とすると、既に、カトリーヌは1894年に亡くなっているし、長男フランソワも75歳、インド系ハーフのイギリス人女性と結婚した次男シャルルも65歳、従って、可能性として、ミレーとは関係のない人間、つまり観光客が写っているのか? 或いは、1922年よりずっと以前に撮られた写真を、ジェラルディンがドウインに提供したのか? 後者の方が可能性としてあるのは、ミレーの庭は公開されず、今でも私有地と考えられ、前二葉の絵葉書にカトリーヌが写っていた例から、ミレーの遺族が写っていると考えた方が理にかなうと思われます。つまり、ミレーの遺族達もバルビゾンの観光化にかなり協力的であったと思われ、次男フランソワは1849年生まれで、1939まで彼が生きているとすれば90歳なので、奥さんである彼女は未亡人と書かれるのが自然だと思われますが、「長男と結婚したアメリカ女性は健在であった」とアメリカ人であることを強調するのは、何か含みがあるのでしょうか?【2012/06/20】古文書保存館での調査を敢行する前に、手元にある資料で、調べる内容をチェックしていて、ミレー家の系図の解説から、次男フランソワの没年が判明したと思いましたが、1945年に93歳でなくなったのはジェラルディンでした。ジェラルディンとミレーの長男のジャン・フランソワ・ミレーが結婚したと言う文章の後に、,で句切られ、decedeeとあり、動詞が女性形になっているのに気付かず、飛んだ間違いをしてしまいました。しかし、この間違いで、ミレーの長男フランソワの没年が判明していないことに改めて気付きました。ビリーがジェラルディン未亡人とは書いていないので、1939年当時長男フランソワも健在であった可能性はありますが、彼の奥さんが故国に避難し、そこで亡くなった事が確認された今、今度は、夫フランソワも彼女についてニューヨークに行ったのかどうか。それより長男フランソワは何時、何処で亡くなったのかミレーに関する文献に記載されていないことがわかり、セーヌ・マルヌ県の古文書館では今のところ調べる手立てはありません。生まれたパリの古文書館では1870年以前の文書が消失しているので、調べられません。ジェラルディンの没年からの逆算で、1897年の結婚当時、ジェラルディンは43歳であったことがわかりました。しかし、ビリーは生前のカトリーヌとジェラルディンのかかわりを書いているので、書類上の結婚以前に長男フランソワと一緒だったと思われ、43歳の結婚を理由に二人の間に子供がなかったとは言い切れないでしょう。父親ミレーのように子供ができた後に結婚している事もあるわけですから。と言うことで、ミレーの遺産相続の行方を追うべく、次男フランソワのことも調べようと思いましたが、没年月日と場所が判明しない限り古文書保存館では調べようがありません。したがって、わかったのは父親ミレーのことだけでした。相続の詳細が書かれた頁をコピーして来ましたが、そのことは、100年以上前の癖のある、手書きのインク文字を読み解くのに時間が掛かりそうです。さらっと読んでみて、相続の中に鉄道の株を見つけ、これは、ミレーが、経済音痴だったわけではないことが証明される資料になるのではと思うくらいです。【注】このたび、古文書保存館でミレーの死亡記事を見ましたが、死亡年齢が59歳と記載されていました。1814年に生まれたなら61歳のはずです。公文書でさえ、このような記述があり、今後も訂正事項や追記が多々あると思えるので、推測の間違えも含めて、これ以後、わかり易くする為に、文字色を変えての記載を試みます。それよりも、ドウインの力の入れようを考えると、やはり彼は「ミレーのアトリエ」を所有したと考える方が妥当でしょうが、確認できません。それより、何故、ミレー家は美術館の設立に協力的なのに、残ったミレーのアトリエを買い取らなかったかと言う疑問が生まれますが、ジェラルディン以外の遺族、つまりカトリーヌ未亡人にしろ、長男フランソワにしろ、ミレーの遺産を相続した彼らにとっては、貧しい時代の思い出で、単純に、その価値を客観的に承認できなかったに過ぎないのではないかと思います。或いは、世代が変わった段階で、買い取りたいと思ったときには価格で折り合わないものになっていたのかも知れません。それも充分ありうることでしょう。

下の絵葉書は、最近入手したドウイン版「ミレーのアトリエ」の展示風景です。
彫像は、ミレーの郷里グレヴィルに設置されている銅像の頭部石膏像でしょう。その斜上に、このサイトの最初に紹介した自画像デッサンが展示されています。ということは、あのデッサンは私設美術館「ミレーのアトリエ」の所蔵作品なのか?
「ミレーのアトリエ」内部



「ミレーのアトリエ」再現
第5章に掲載したブラウン撮影の自画像デッサン絵葉書に、著作権が「ミレーの家」にあるかのように「バルビゾン・ミレーの家」の浮き出し印が押されているのを見つけ、その上、この絵葉書によりアトリエに展示されていることを知ると、もしや、ミレーはこのデッサンを終生身近に置いていたので、アトリエに残されたのか。そんな話は耳にしてないので、確認すると、本物は現在ルーブル美術館のデッサン室に保管されていることがわかりました。つまり、これもドウインの再現企画の小道具の一つと言うことでしょうか。ミレー没年に撮られた写真によるアトリエの再現(下の絵葉書がそうです。第6章の最後に、没年の絵葉書写真との比較を掲載しています)は、指物師による複製画架などでの構成ばかりではなく、ミレー家(多分、ジェラルディン【長男フランソワの没年が判明し、既に未亡人でした】 )がミレーが使用していた家具や多分ミレーが亡くなった時のベットも提供しているので、瀬木氏の指摘のように、無理をして再現したともいえますが、かなり忠実に再現されていたのではないでしょうか。それはミレー家つまりジェラルディンの協力がなければ無理だったでしょう。また、ドウイン版の絵葉書にはミレー家提供の写真が使われ、英文のタイトルも併記されているのは、アメリカ人ジェラルディン・ミレー夫人の翻訳と思われ。以上のことから、ドウインの「ミレーのアトリエ」の小美術館構想はジェラルディン夫人が関わらなければ成立しなかったと今は思います。しかし、大戦を契機に、ジェラルディン・ミレー夫人はアメリカに避難し、その時、小美術館に貸していたミレーの遺品を引き上げたのでしょうか? 美術品の収集に積極的だったナチ・ドイツは戦時中駐留したバルビゾン村では何もしなかったのでしょうか? 独軍のバルビゾン駐留を経た後、再開された「ミレーのアトリエ」は多分、ドウインの再現したアトリエとは違ったものになっていたと思われますが、それに関する記録はあるのでしょうか?等々知りたいことは多々ありますが、霧の中です。

 話をビリーに戻し、観光代理店は「ミレーのアトリエ」の企画を登録しましたが、ビリーは友達で、「ガンヌの宿」私設美術館の管理者であるシャブーが、「二つの端をつなげる企ては難しい」と言っていたのを耳にしたと書いています。「ガンヌの宿」は私設美術館でその管理者としての肩書きを持つシャブーが二つの端というのは、「ガンヌの宿」と「ミレーのアトリエ」の二つの私設美術館と言うことではないかと思われます。もう一つ「ルソーの家とアトリエ」がありますが、何時の時点で公的な美術館として「ルソー美術館」が出来たかははっきりしません。(バルビゾ役場のサイトによれば1927年にできたと言うことです)1920年にルソーの家の前にバルビゾンの慰霊碑が仏米の共同寄付で作られています。ゴール人の胸像がそれです。第一次世界大戦終結後のこの時点で、何か動きがあったのか?公立バルビゾン派美術館資料では「ガンヌの宿」は1930年から計画され、36年に私設美術館として公開されています。
 ビリーの記述では、「1922年にドウインが『ミレーのアトリエ』を美術館にしようと企画した」とあります。前記したように1900年初めに撮られたと思える絵葉書の写真には、はっきりとミレーのアトリエは訪問者を受け入れていましたが、それは単に史跡表示と同じ類のもので、ただその場所を見せていただけで、ドウインは「ミレーのアトリエ」を再現し、多少の資料を展示する事で美術館にしようとしたのでしょう。
 人の好いシャブーはドウインを助けて、家事から訪問者の案内までを引き受けて、「ミレーのアトリエ」で共同生活をし、その困難さをビリーは書き留めています。1935年の段階で、「ドウインは疲れたのですべて放棄したいとシャブーに相談した」とビリーは書きます。その結果、どんないきさつからか、翌年1936年ルーアン在住の「ガンヌの宿」所有者ゴーチエに会いに行くことになりました。そのときドウインは73歳、シャブーは彼の健康を気遣って付き添って行ったということです。(2013/01/22)ドウインは挿画家で、ムーランに住んでいたという記述を、偶然入手したビクトル・ユーゴーの小説に、挿画家としてカール・ボドメールの名があり、彼を調べた中に、アンドレ・ドウインの名が同業者として登場し、同一人物かどうかの確認はできませんが、地理的な活動範囲から可能性を感じます。

1940年の消印のある絵葉書  ドウインと思われる人物の拡大
消印が1940年で、それ以前に撮られた写真とすれば、門のところに立っているのは、アンドレ・ドウインと思われます。
 カラー写真のように見えますが、白黒写真に彩色したものです。その後、まったく同じ写真で、ドウインが消されている絵葉書を見ました。どんなことが起きたのか想像できそうです。

このビリーが書き残した話で、解せないのは、1936年に「ガンヌの宿」を私的美術館として公開したピエール=レオン・ゴーチエが、「ミレーのアトリエ」を観光客相手の小美術館にする計画を実現し、管理者になったアンドレ・ドウインと終身年金の契約をしようとしていたことです。
 前記同様、気になるので読み返しました。ドウインの健康を気遣い、その場に(後に「ガンヌの宿」私設美術館管理者になる)シャブーが付き添っていたとビリーは書き、面会はうまくいったにもかかわらず、ドウインの様態が悪化し、医者は帰郷を止めましたが、車で帰ることにし、ヴュー・ヴィルというところで、ドウインはシャブーの前で失神しましたが、その後も運転を続け、自動車は樹にぶつかって大破し、シャブーは無事でしたが、ドウインはハンドルに胸を押しつぶされ、病院でなくなったということです。しかし、これらは全てビリーがシャブーから聞いた話と思われ、従ってどこまで正確な話かわからない気がします。(2013/01/22)ドウインが、亡くなった病院の場所がわかりました。ヴェルノンです。睡蓮の池のある、モネの家で有名なジベルニーから少し先のセーヌ河沿いの大きな町です。
 この話で、最初に、ゴーチエとドウインが終身年金契約が意味するところが良くわかりません。単なる雇用契約という意味なのか、73歳のドウインに対してゴーチエは何をしようと考えたのか? ゴーチエが「ミレーのアトリエ」の管理に疲れたドウインを「ガンヌの宿」私設美術館の管理者として引き抜く話しなのか? そして、ドウインが亡くなり、代わりにシャブーが「ガンヌの宿」の管理人になったという話につながるのか? そうなると利を得たのは、シャブーということになります。それとも、ゴーチエは二つの私設美術館を一緒にしようと考え、ドウインに終身年金を与え、引退させ、シャブーを両方の管理者にしようとしたのでしょうか? 読み返して気付きましたが、ビリーが友達であるシャブーの肩書きを「ガンヌの宿」の管理者と繰り返し書いていますが、それはこの自動車事故で、ドウインが亡くなった後の「ガンヌの宿」が公開される時にシャブーの肩書きが管理者になったわけで、その前のゴーチエとドウインの終身年金の話は、ドウインを「ガンヌの宿」の管理者、館長に就任依頼をし、一応、ドウインは快諾したのではないかとと考えるのが一番妥当に思えます。従って、ビリーの友達であるシャブーが、ビリーに語った自動車事故の顛末を、彼は信じたでしょうか。ビリーは何も書いていません。(2013/01/22)深読みすれば、やはり「ミレーのアトリエ」と「ガンヌの宿」の二つの私設美術館の統合が含まれていたと思われます。加えて、その後ろに利潤追求に走る企業戦略があったなど、荒唐無稽過ぎるでしょうかね。

 ビリーは本の最後の方に、ピエール=レオン・ゴーチエのことを、ガスコーニュ訛が強く、ブドウ栽培者だけではなく、パリ大学の文学博士で、文学界でも活躍したことを書きますが、本職は、バルビゾンから南に下ったネムールの初等、高等、専門学校の監督官であったとあり、つまり教養も経済力も社会的地位もある人物である様に書いています。そんなことで、ルーアンに住んでいた彼は近くのバルビゾンに別荘替わりの家として、物色している時、たまたま元ガンヌの宿が手に入り、その後廃業した後継者から元ガンヌの宿の遺品を買い取る事ができたので、下だけを美術館に衣替えすることにしたのではないでしょうか。(文献に書かれたことではありません。単なる憶測です)多分、当時も今も、「ミレーのアトリエ」の方が訪問者が多いのではないかと思えるので、ドウインが放棄(贋作事件のごたごたで嫌気がさしたのか)しようとした時、そちらも手に入れようとし、「二つの端をつなげる企ては難しい」というシャブーの言葉になったのかもしれません。そして、シャブーが何かの役割を果たしたと思われますが、読み取れません。語学能力のなさを悲観します。或いは、そうではなく、隠された何かがあり明記されないのか? 1940から1944年まで、ドイツ軍に占領(役場のサイトによる)されている間、何もなかったのか? ドイツ軍駐留の間の出来事を明らかにするのは簡単なことではないでしょう。現在の「ガンヌの宿」(バルビゾン派美術館)のサイトには、ビリーが自分の友達と書き、人に頼まれたらいやといえないお人好しと書く、「ガンヌの宿」の管理者になったシャブーのことはまったく無視されています。占領下のビリーはリヨンに避難していたということです。シャブーはどうしたのでしょうか? 著書「バルビゾンの好日」が出版されたのは終戦後の1947年です。【2012/06/20】【追記】ジェラルディンが第二次世界大戦中ニューヨークへ避難し、そこで亡くなっている事を最近知り、ビリーがわざわざ、1939年現在ジェラルディン・ミレー夫人は健在であると書いたのは、何か意味があったのでしょうか。一つは第二次世界大戦の勃発前まで、ジェラルディンはバルビゾン村に留まっていたということでしょう。ならば、いろいろな出来事の生き証人であるジェラルディンに、何故ビリーはインタビューしなかったのでしょう。それは、ドウインとシャブー、加えて「ガンヌの宿」のゴーチエを牽制しながら、贋作事件の舞台になった「ミレーのアトリエ」を立て直そうとしていたのはミレーの名前を大切に思う彼女だけだったのではないか。そんななかで、既に毀誉褒貶、いろいろ言われているミレーの息子の嫁という立場で語ることは、物事を複雑にしても、事実がそのままには伝わらないと思い、ビリーの申し出に応じなかった。そして、戦争を契機に急転直下、独軍の圧勝の前にアメリカ人である彼女はなすすべもなく、全てをあきらめて故国に疎開したのではないかと、またまた、小説的な空想で遊んでしまいました。

 バルビゾン派美術館のWebサイトにあるミレーのアトリエのページには、現在の所有者はムニエール夫妻とあります(検索時点で)。このサイトは、「ガンヌの宿」、「ルソーの家とアトリエ」、「ジャン・フランソワ・ミレーのアトリエ」と三つのページに飛べるようになっています(シャルル・ジャックのページもあります)。ミレーのアトリエは私立美術館ですが、公立美術館のサイトに取り込んでいるところを見ると、関係は悪くないようで、そのうち、一緒になるのかもしれません。(理由はわかりませんが、バルビゾンのサイトはしばしば変更されます。アクセスするたびに内容も変り、この記載は消去した方がいいかもしれませんが、こんなこともあったという記録としてしばらくこのままにします。)私立美術館「ミレーのアトリエ」Webサイトには、最終ページにドウインの後アッチェール氏、その後が例のリシャール氏が管理者を勤めたとあり、所有者はフランシス・ムニエールからスザンヌが継ぎ、そして現在のジャック・ムニエール氏(最新情報は、ムニエール夫人と娘です)と言うことで、このWebサイトにはサンシエ家とのつながりは記載されていません。

 【後記】 岩村透がバルビゾンを再訪した時、「ミレーのアトリエは跡かたもなく」と書いているので、彼は現「ミレーのアトリエ」を見ていないのは確実だと思いますが、1903年の消印のある「バルビゾン−大通り−ミレーのアトリエ」とタイトルの絵葉書が手元にあるので、公開されていたかどうかは別にして、当時の絵葉書から、観光的に宣伝されていたわけで、その後、消印の年代が識別できませんが、切手と裏の様式から、1903年以降、1910年以前に「ミレーのアトリエ」には表示板が付、訪問者も受け入れていました。(これに関して、2000年10月から2001年6月まで日本で開催された「グレー・シュール・ロワン村の画家たち」という展覧会のカタログを偶然手に入れ、末尾の関連年表で、「1901年、浅井、和田、久保田、バルビゾンへ行く。ミレー、ルソーの像、ミレーのアトリエを見学する。(12月22日)」とあり、「1908年、児島、斉藤、バルビゾンにミレーのアトリエを訪ねる。(7月3日)」とありましたので、訪問者を受け入れていたことが資料で明確になりました。訪問者は浅井忠、和田栄作、久保田米斎、児島虎次郎、斉藤豊作の諸氏です。出典は明記されていませんが、日記や書簡と思われます。このことで、岩村透は黒田清輝とは知己でしたが、パリで学んだ画塾がアカデミー・ジュリアンとアカデミー・コラロッシュで異なり、パリで岩村と黒田が頻繁に交流していたと思えず、その後にグレー村に滞在した日本人画家たちと岩村との交流があったかどうかも、岩村のバルビゾン訪問記の「ミレーのアトリエ」の記述から想像できます。黒田清輝日記の「グレーの自炊物語」の中に24年〈明治24年なら1891年になります〉の夏の末ごろにグレー村に岩村が尋ねてきたとあり、このページの最初に記載した岩村のバルビゾン訪問記は1891年か1892年の12月とあり、この後で岩村はバルビゾン村を訪れたことになり、黒田からどんなのバルビゾンの情報を得ていたのか疑問になります。黒田清輝による「二十余年前のバルビゾン村」によればグリフィンと言う画塾仲間と最初にバルビゾンを訪ね、長逗留もし、ミレーの息子にも会い、バルビゾン村の人との交流もあり、黒田がそれを話していれば、岩村が、「ミレーのアトリエ」を間違うわけはないはずですが、ミレー未亡人の家の方に気を取られ、肝心の「ミレーのアトリエ」にはそれほど注意を払わなかったのでしょうか? 黒田は「ミレーの家は、つまらない平家だ、画室がなけりや佳い画できぬなどというのは嘘だ。その家はその後修繕をして、見世物みたいになっている」と記しているので、黒田は間違いなく現「ミレーのアトリエ」を知っていたわけですが、岩村は2度目の訪問で「アトリエは跡かたもなく」と書いているので、最初に訪ねた時に「ミレーのアトリエ」と思った建物が現「ミレーのアトリエ」ではないことは明白です。つまり、黒田と岩村はバルビゾンの「ミレーのアトリエ」については語り合っていないというになります)しかし、ドウインがミレーの亡くなった年に撮られたアトリエの内部写真をもとに生前のミレーのアトリエを再現する計画は1922年であると文献にあり、それにはミレー家と言っても、主導したのはジェラルディンと思われ(長男フランソワは1917年没と判明。後記)、家具提供などに協力し、ドウイン版と明記した絵葉書にも写真を提供しているので、ドウインとジェラルディンの協力関係が成立していたようで、ほぼ現在の私立美術館の形は出来上がっていたのではないでしょうか。ルソーのアトリエが村立美術館になったのは1927年ということですが、ガンヌの宿の下を私設美術館として公開する計画は1930年からとあり、実現は1936年、ドウインと契約を交わす話の後で自動車事故により彼が亡くなった年です。そして、ドウインが贋作事件に関わっていたらしい記述が残っていますが、高額で売れる画家の絵は贋作の対象にされることはままあることですが、一般に、事件の詳細は公表されないでしょう。ビリーがドウインとよく、詩人アポリネールのことを話したと書いていて、ビリーの問い合わせに対するドウインの手紙の返事が掲載されていますが、「天才詩人の理解の為に(アポリネーの出生の秘密、誰が父親かの証言でしょうか?推測です)、封をした遺言を、ビリーに送る」と書いていますが、送られる前に、自動車事故で亡くなったということです。なんでこの場面に、アポリネールの名前が出てくるか疑問でしたが、ドウインの父親、陸軍大佐とアポリネールの母親の関係で、彼女の取り巻きをよく知っていたからのようです。それでもドウインに関する記述にアポリネールの名前を出す理由がドウインの父親とアポリネールの母親が親しかったためだけであるとは思えず、何か他にあるのではと思っていたところ、最近、新たなレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」が話題になり、「モナリザ」がルーブル美術館から盗まれた時の話が思い出され、ピカソが一時所有していたと書かれていたことも思い出しました。(しかし、これは文献で確認できないので、ピカソは別のルーブル美術館からの盗難品をアポリネールの知り合いから入手していたので、取調べを受けたと訂正した方が良いようです)それは窃盗団の一員として嫌疑を受け、1週間刑務所に留められたアポリネールとの関係で入手したと思われ、アポリネールがこの窃盗団と何らかの繋がりがあったことが当時から話題になっていたはずで(これも、アポリネールが窃盗常習犯と知り合いで、ピカソは彼から入手していたとかで、アポリネールとピカソが取調べを受け、盗品を戻すということで釈放されたということです。その後、1922年に「モナリザ」の盗難事件を計画した犯人による、贋作を売りつける手段だったというスクープ記事が、犯人の知人の記者による犯人死後の公表があり、大規模な贋作事件ということになりました。ミレーのアトリエ再現計画が1922年というのも何か因縁じみていますが、と言うことで)、ドウインのミレー贋作事件も美術品をめぐる同類の犯罪として、ビリーはアポリネールの名前を取り上げたのではないかと邪推してしまいました。何かいろいろ含みを持たせた書き方をしていると考えるのは、深読み過ぎますか。「ガンヌの宿」の管理人になった、ビリーが繰り返し、親しい友達と呼ぶ、シャブーの名前は、現在ではまったく消されていることは、第二次世界大戦で、独軍がバルビゾン村に駐留していた4年間、もっと大きな不名誉な何かがあり、語られないことがあるのかもしれません。これも深読みか? 日本の戦後もまだ終わっていないと言う論議もあり、バルビゾン村の戦後も終わっていないのかもしれません。最近も、ナチによる略奪美術品1500点あまりが発見された報道がありましたが、騒動になるのを恐れて、2年間公表を控えていたとか。美術品にまつわる事件はいろいろ複雑です。

 下の絵葉書は、小美術館として公開された「ミレーのアトリエ」の裏側です。最初の方に掲載した、没年に近い年代の絵葉書写真と見比べると興味深いものがあります。縁の飾り切りが年代の証明とかで、1950年頃の絵葉書ということです。「268バルビゾン ミレーの家」とあり、中央に便りとあて先を区切るために、縦に「写真コリン・タンナヴ(ニエーヴル)複製禁止」と記載され、ドウインの絵葉書とは別な発行で、終戦後再開された「ミレーのアトリエ」で売られていた絵葉書かもしれません。庭も公開されている様に見えますが、テーブルと椅子がおかれているので、地続きがホテルの庭になり、ホテルの宿泊客は自由に散策できたのか? 「庭から見たJ・Fミレーのアトリエ」を参照すると、ホテルとは別に、裏の土地の所有者の庭だったのか。いずれにしろ、この絵葉書写真に「ミレーのアトリエ」のさびれた様子を感じるのは、ドウイン没後という事情を知ってのことでしょうか。

1940〜50年代のミレーのアトリエ

既にアトリエとして公開されていたと思いますが、旧アトリエの入口の扉の小さなガラス窓から、バルビゾン大通りに面した窓の明かりが見え、何となく、閑散とした雰囲気です。カメラの置いた位置がホテルの敷地内で、そこからミレーの家を撮っているのではないかと想像されます。

 報告:この下に掲載した「ガンヌの宿」のサイトにアクセスを試みましたが繋がりません。私立美術館「ミレーのアトリエ」にも繋がらなくなっていました。しかし、新たに「ジャン・フランソワ・ミレー、家とアトリエ」のタイトルに変り、内容はまったく変って商業的要素が加わっていました。美術館報に2004年にバルビゾン派美術館は県立になったと記載されていましたので、バルビゾン派美術館も変ってしまったのか?「ドービニーのアトリエ」の1頁だけのホームページはそのままです。ミレーのバルビゾンの方が観光財源価値が高いからいろいろ変るのでしょうか? 美術史的価値は減少していると思いますが、それを憂うのは少数でしょうね。岩村透的心境です。カイユ女史の名前で検索し、「バルビゾン派美術館・ガンヌの宿、ルソーの家」のサイトを見つけられたので、改めて掲載します。画像も増えていました。サンシエの肖像画を初めて見ました。<追記>(2011年11月30日)右下にWebサイトにアクセスできるようにしましたが、追記の度に確認しますが、その度、サイトがなくなっています。何故サイトがなくなってしまうのか分かりません。ここにも商業的な意味が伴っているのでしょうか。インターネットのサイトが商業的な利益追求に走るからなのでしょうか。サイトにアクセスできなくなる理由がわかりません。
「バルビゾン派美術館・ガンヌの宿、ルソーの家」編纂、マリー=テレーズ・カイユ
「ミレーのアトリエ」私立美術館
[ドービニーのアトリエ」


【追記】(2013/01/22)ドウインがハバスHAVAS(観光事業)のために働いていて、「ミレーのアトリエ」の企画を立てたことを、「メディア、放送、総合ビジネス」の観光関係のサイトで知りました。ここで「ミレーのアトリエ」の所有者に関して何かあるように思えます。わざわざHAVASの名を出すのはドウインが小美術館を設立した時にHAVASが観光事業の一環として資金援助をしたという意味に取れます。となると、所有者は現在も続くHavas groupという大企業である可能性があり、現在は「ミレーのアトリエ」の後方に建つ家に住んでいる、「ムニエール夫人と娘さんが管理保持している」とサイトに記載されています。2010年の「バルビゾンの美術館」のサイト紹介記事には、ムニエール母娘が明確に所有者であると記載されていますが、2012年に「ミレーのアトリエ」館長と電話で話した文書館の人は「ハバスが所有している」と言ってました。サイトに記載されたa ce jour le proprietaires と言う書き方が意味するものは何なのか? 所有権に関する裁判でもあったのでしょうか? 「ガンヌの宿」が公立美術館になり、「ルソーのアトリエ」が分館なのに、何故「ミレーのアトリエ」が何時までも私立美術館なのかという疑問があり、何か複雑な事情を思わせ、断片的にしか記録されていないため、要らぬ想像をしてしまいます。この憶測が、一人歩きして、デマゴジック(扇動的、欺瞞的)に取られては困るのですが、ビリーの書いている、「観光代理店は『ミレーのアトリエ』の企画を登録しました」と訳した文章が、前記ドウインがHAVASの為に働いていたということの含みを読み取るのは考え過ぎか? HAVASという後に国際的な企業に発展する観光業者がいたことを知ると、単に、ゴーチエとドウインの交渉ではなく、ゴーチエとHAVASの商業上の駆け引きという線も浮かび上がり、なかなか事情は複雑になります。ビリーはどこまでHAVASの存在を知っていたのでしょうか。HAVASに関しては最新情報で、文書館の責任者の話と前記インターネットサイトによります。

 話を変えます。機会がなく記載がおくれました。長男フランソワのことです。
ミレーの長男の墓
 まったくの気まぐれで選んだ大通りの脇道の先に墓地があり、何気なく入った中央右にあの見慣れたジャン・フランソワ・ミレーの名の刻まれた墓石を見つけた時は、まったく驚きました。バルビゾン村の墓地で、あるまい事か没年月日を探していた長男フランソワの墓にたどり着きました。パイヤール夫婦に次ぐ二度目の天啓のような気がしました。やっと長男フランソワは1917年4月18日にバルビゾンで亡くなっている事が判明しました。墓誌にジェラルディンの名前はなく、第二次世界大戦の始まる前までジェラルディンはバルビゾンに留まっていた事はビリーの記述にあり、常識的にはジェラルディンによって建てられた墓と思いますが、石に刻まれた墓石面には、妻である、ジェラルディンの名が刻み込まれる場所がありません。その後、戦争を避けてニューヨークに移り、1945年にそこで、93歳で亡くなっていますが、つまり、ジェラルディン・ミレー夫人(マリー・ジェラルディン・リード)は夫と一緒の墓に入る気が、この時既になかったのかもしれないことを想像し、現在の墓のたたずまいと共に、ひどく寂しさを感じました。感傷的過ぎますかね。
この間の出来事、1922年にミレーのアトリエを小美術館として公開したドウインが自動車事故で1936年に亡くなっている事や、ミレー美術館を舞台にして起きたであろう、ドウインによるミレーの画の贋作事件などに、ジェラルディン及びミレーの親族がどう関わっていたかなどの醜聞に関することは、貧しい農民画家ミレーが、個人的契約が成立した46歳以降、経済的に安定し、隣接する家を買い取り、拡張していったであろう事を、絵葉書を通して推理してみましたが、それらは伝記のどこにも書かれていず、そのことと同様に、贋作事件や、その後に起きたバルビゾン村の独軍の駐留の問題などは、あまり突き詰めて調べられていないようです。しかし、それらは、画家ミレー個人のことではないので、これ以上立ち入ると、知られていない真実としても、興味本位なだけの物語になってしまいそうです。長男フランソワの没年とバルビゾンで死去したことがわかったので、古文書保存館へ行き、ミレーの遺産を継いだ長男フランソワには子供がなかったことが確認できたので、そのことだけ報告しておきます。つまり妻であるジェラルディンがほとんどを相続したと言うことになります。となると、ミレー家が、ドウインの「ミレーのアトリエ」を再現して小美術館にする計画に協力的だったのは、ジェラルディが、サンシエの娘から「ミレーのアトリエ」を買い取ったからなのではないかと、大別荘を建てることができる位の資産があるならと想像しましたが、前記のようにHAVASからも資金援助(単なる想像です)がされているようなので、資本の大きさから言っても、HAVASが買取、ドウインに管理させた方が確率が高そうです。それよりもジェラルディンとしては、ミレー未亡人カトリーヌも亡くなり、長男フランソワが受け継いだ、ミレーの遺産を、最終的に自分が受け継げる様にすることのほうが重要なことで、カトリーヌ没後3年めに、やっと書類上できちんと婚姻届けを出して、ミレー夫人を名乗ることができ、そのことをビリーが書き留めたのでしょう。しかし、第二次世界大戦が勃発してしまい、フランスがドイツに蹂躙されるに及び、祖国に逃避せざるを得なくなり、その時彼女はどのような心境で、ニューヨークへ旅立ったのか。現在ミレー家の敷地はホテルになっていると思われ、売却されたのか、遺族のうちの誰かが所有を続けているのか? ジェラルディンから相続した後裔者が経営しているのか、経営は別なのか、今はまったくミレー家とは関係がなくなっているのか、続いているのか? 「ミレーの遠縁に当たる」と言うリシャール前館長の言葉の信憑性(前記サイトにも疑問と記されていました)も含め、サイトによる、「ミレーのアトリエ」の後ろの家に住むムニエール家が所有者なのか、HAVASが「ミレーのアトリエ」を所有しているのか? とかは、やはり、興味本位な話題になってしまいますかね。そして、ミレーの子孫の個人情報を調べることにどれだけの意義があるのか多少疑問に思えてきます。唯、ミレーの孫と注のある版画を見たことがありますし、ミレーの子孫はバルビゾン村にはいませんが近くに住んでいると、村役場の人の情報として記載しておきます。歯切れの悪い結びですが、一部整理して書き換えました。
 観光地化されてしまった、現在のバルビゾン村の、その中心ともいえる「ミレーのアトリエ」が公立ではなく、私設小美術館として1922年以降公開され、そこを舞台にして、いろいろなことがおきたようですが、画家ミレーに直接関係のないことなので、当然学術的には解明されていないと思われ、噂話程度のことが知れるだけです。結局、遠因は「ミレーのアトリエ」はミレーの所有ではなく、サンシエが所有し、ミレーに貸して、ミレーは画やデッサン、銅版画などの作品を家賃代わりにサンシエに提供していたという、当初から、一般的な賃貸関係から逸脱していた事が尾を引いた因果応報を感じてしまいます。サンシエのミレー伝により、子沢山で貧しいながら、信心深い、農民画家ミレーというイメージが生まれ、それを、現実の「ミレーのアトリエ」にドウインが再現したわけで、バルビゾンを訪れる観光客の大半はそんなミレーがお目当てなのでしょう。最初に掲載した、岩村透の著述もミレーを訪ねてのバルビゾン村の印象記で、ミレーのアトリエが跡形もなく取り壊されたのを見て「二度とくるものか」毒づくわけで、彼がドウインが公開した「ミレーのアトリエ」を見たとしたらなんと叫んだでしょう。ということで、なんとなく違和感の伴う、現実のバルビゾン村のミレーの遺跡に関して、個人的な探求をしましたが、最後に、ゴーグル・マップの航空写真で、バルビゾンの「ミレーのアトリエ」を見ると庭側、大通りから奥に向かって、ジャン・フランソワ・ミレー通りまで、ずっと樹が茂っています。結局、何時の時点かわかりませんが、歴史保存区として、土地が転売され所有者が変わっても、新しい建物が建てられなくなったためではないかと思います。公にされていませんが、その結果、かってのミレーの所有地がそのまま残されているのではないかと想像します。従って、未亡人が住んだ別荘風の家、及び大別荘の建っていた場所は確定できるのではないかと思います。と書きながら、確証を取らず、推測ばかりで、消化の悪いままバルビゾン村を離れることにします。「写真」にまったく関係ないとはいいませんが、それにしても、「ミレーのアトリエ」には長居をし過ぎた気がします。

ミレーのアトリエをこれで終わります。「写真」の査定に重要な隣村の旅籠屋シュバル・ブロンの撮影場所の問題点を取り上げるので、気持ちを切り替えてください。よろしくお願いいたします。






○ ここで、前に約束した、ミレーの家のデッサンと絵葉書の比較をお見せします。
ミレーの家のデッサンの著作権に関して作品が個人蔵としてあり、デッサンの撮影者の名前もなく、どの様に掲載許可を得たらよいのかわかりませんので、とりあえず、無断掲載させていただきます。支障があれば、直ちに、撤去いたしますが、以後の証明に欠かせぬ参考資料なので、掲載を許可いただけたら有難く思います。
ミレーの家デッサン
松方幸次郎が最初に日本に持ち込んだミレーの素描
絵葉書写真「ミレーの家」
没年1875年のミレーの家

デッサンと写真の屋根のカーブとレンガ造りの煙突の位置と形を見比べてください。

デッサンは1853年に描かれ、絵葉書はミレー没年1875年に撮られたものです。従って、22年の歳月の間に改造されましたが、屋根のカーブは直されず、中央の煙突も、その下の窓も変わっていないようです。

ここで、このページの最初で問題にした、旅籠屋シュバル・ブロンの前の撮影であることの証明に移りますが、旅籠屋の主人夫婦の肖像ほどには容易ではありませんでした。その為に、ミレーの家のデッサンと写真の比較を先ず掲載したわけです。つまり、ミレーの家が、子供も増え、画家になりたいと兄を頼ってきた二人の弟も抱え込み、改造されたために多少外観が変わっていることを、先に見ていただいたわけです。
 お察しの通り、旅籠屋シュバル・ブロンの外観も変わったと思われますが、変わる以前の写真或いはデッサンが見付からず、状況による判断しかできません。以下その説明。

○ ナポレオン三世の命によって、パリに歩道が造られ、それが何時の時期にバルビゾンにも敷設されたのか、ミレー未亡人の写っている、1875年のバルビゾンの大通りには二本の排水の溝があるだけで、歩道にはなっていません。その後、単線鉄道がバルビゾンまで開通した1899年には既に歩道は敷設されていました。そして、旅籠屋シュバル・ブロンの前にも、歩道が敷設され、それ以前の旅籠屋シュバル・ブロンの写真或いはデッサンを見ることができず、多分、歩道或いは単線鉄道が敷設された時に、旅籠屋の正面は改装されたと思われ、窓、階段と入口の位置などは変わっていませんが、細部がまったく同じではなく、水捌けの傾斜を持った歩道石の分、歩道が高くなり(入口の石段が1段減っていると思われます)、加えて、すぐ前を単線鉄道路が通過しているので、外観はこの「写真」撮影当時とはっきり違っています。従って、現在のところ確証を得られていません。
絵葉書「旅籠屋シュバル・ブロン」と馬車 絵葉書「旅籠屋シュバル・ブロン」と自動車
絵葉書「旅籠屋シュバル・ブロン」と自動車 絵葉書「旅籠屋シュバル・ブロン」と汽車
全て、大通りから見た旅籠屋シュバル・ブロンです。馬車、自動車、単線鉄道を映像に入れ、かって宿場であったことを彷彿させる絵葉書です。旅籠屋の向かって左側にある大きな戸の入口は、ガレージと書いてありますが、藁を積んだ馬車がそのまま入れる高さです。旅籠屋ガンヌも同様な造りになっていたのをご記憶でしょうか。

旅籠屋シュバル・ブロンの外観が改装されたので、場所での確証を得ることができませんでしたが、主人夫婦の肖像は間違いなく、旅籠屋シュバル・ブロンの前での撮影である事を示しています。しかし、1860年代の旅籠屋の写真が入手できなければ推定の域を出ず、ミレーの住居同様、人々の興味を惹かない問題とすれば、研究対象にならず、資料収集も難しく、このホームぺージを切っ掛けに、シャイイ村の1860年代を写した写真が出てくることを期待します。





○ この追記は、パリから「写真」の撮影場所までの行程に関するもので、フォンテーヌブローの森を抜けて、ビエール平原に至る実地の体験で、足による調査記録です。というもものの、現在のバルビゾン村の報告も含みます。

[追記(2011年11月30日)]
いつも頭の中に、当時の画家たちのように、一度、「ムーランからバルビゾンまで歩いてみたい」思いがありました。この度、同行してもよいと言う、物好きと言うか、親切な若者が出現し、28日に決行の運びとなりました。ムーランまでD線の郊外電車EREで、そこで降りて、直ぐにバルビゾンに向かおうと思いましたが、ムーランあるいはムラン(瀬木氏はムーランと表記していましたが、ミシェラン・ガイドにはムランと表記してあります。最近、地名としてムーランと言う表記(moulins)になる町の存在を知ったので、ムラン(melin)のほうが正確な表記と思われます。しかし、瀬木氏に敬意を表して、変えないことにします)は古い町らしく、少し見ようかということになり、パリと同じように、セーヌの中州から発展した町を歩きました。鉄道はセーヌの左側、旧市街の南外れに位置しているので、駅からセーヌに向かい、橋を渡り、中州を抜け、また橋を渡ると直ぐにかなりの勾配の上り坂になり、町の成り立ちは小さな小さなパリと言うところで、古い教会の廃墟もゴチックの教会もあり、セーヌ川は澄んでいて、白鳥が群れていました。寄りませんでしたが、フーケが子爵の時の邸宅や18世紀の館の博物館やムーラン出身の19世紀の彫刻家シャピュ美術館があり、教会も多く、13世紀の旧修道院の廃墟もあり、小さな町ながら歴史的文化遺産があり、当時はパリの周辺都市の一つだったのでしょう。最近はどの地方都市も同じような再開発の仕方で、中心の商店街には、有名ブランドのお店が立ち並んでいます。ブリー・チーズの発祥の地とか。ここからフォンテーヌブローにつながる森が広がり、牧場などを背景に、昔からセーヌ川でパリに送る物資の集積地として発展した町のようです。
 フォンテーヌブローの森に風景画を描きに来る画家たちは、ムーランで降りず、フォンテーヌブローまで乗り続けたはずです。とすると、ムーランで降りる画家はシャイイからバルビゾンへ行くのが目的で、単なる乗り継ぎの駅なので、少し離れた市街を散策したでしょうか。ミレーとシャルル・ジャックが連れ立ってバルビゾンを訪れた時利用した乗合郵便馬車はパリからムーランを通り、シャイイを経由してフォンテーヌブローに抜けました。彼らはシャイイで降りて、そこから歩いてバルビゾンに入ったと文献にあります。1891年ごろに岩村透はムーランで降りて、後は馬車でシャイイまで行きましたが、1863、4年にモネやバジール、ルノワール、シスレーなど若者は運賃を節約するため、ムーランからバルビゾンまで歩いたのではないかと思い、一度試みてみたかったのです。
【追記の追記】ムーランを再度訪問したので、付け加えたいことができました。モネたちがバルビゾンに足しげく通ったときから十数年後の1879年5月から1880年の2月までセザンヌはムーランの旧市街の高台にアパートを借りて滞在し、彼の作品の中で平面構成に独創を確立した特異な風景画「マンシーの橋」を描きました。しかし、風邪で部屋に引きこもりがちだったため、ムーラン滞在は満足したものではなかったとかで語られることがほとんどありませんが、現在、絵を描いた場所が保存されていると観光案内所で聞き、訪ねました。街道から少しわきに入った、訪れる人もほとんどないそんな橋を選んで描いたセザンヌに、まばゆい光を追いかけた他の印象派の画家とは違う資質を感じました。また、第2次世界大戦でドイツ軍に町を爆撃され、橋を壊されたムーランは何か負の遺産を引きずっているように感じます。近くに、建築家ル・ヴォー、装飾家ル・ブラン、造園家ル・ノートルにフーケが依頼して造った、ベルサイユ宮殿の基になったヴォー・ル・ヴィコント城など観光資源はそれなりにあるのに、投獄される前の子爵フーケの住んで居た町は何か暗いイメージが付きまとうのは何故なのでしょう。アベラールとエロイーズで知られた神学者アベラールは名声を博する前に、パリから離れて最初にムーランに私塾を創ったと言うことで、ムーランとつながりがあります。ミレーの贋作事件を起こしたドウインが住んでいたのもムーランでした。負を教訓として未来の歴史を正に転換する史跡として、新たに脚光を浴びることを祈ります。

ムランの鉄橋を渡る汽車
ムーランのメ橋を渡る蒸気機関車
 駅まで戻り、シャイイに向けて歩き始めました。ただし、馬車道は舗装された自動車道路に代わり、歩道らしきものはありません。直ぐに林の中に入り、しばらくしてそれがフォンテーヌブローにつながる森の入り口と分かり、結局、シャイイまでずっと森の中を通る自動車道路で、かなりのスピードで走り過ぎて行く車があり、かなり危険です。お勧めできる歴史探訪ではありませんでした。しかし、ところどころに森に入る道があり、落ち葉を敷き詰めた、長く続く、樹林の間の空けた道はとても魅力的で、その当時の林道の雰囲気を垣間見せます。そこを通りたい気持ちを振り切って、森に迷い込む恐れと、当初の目的のために、危険を冒しつつ、歩き続けました。シャイイの町に着く手前で、林から急に視界が開け、ビエール平原に行き着いたことが分かりました。馬車道を歩いてきた彼らもほっとしたことでしょう。シャイイの教会の先端が見え、また直ぐに林で見えなくなりましたが、人家が続き、シャイイ村に着きました。
【追記】(2012/05/22)ルソーが、この地に療養に来ていた同郷の女性と出会い結婚していた記述を見つけて以来、永いこと気にかかってきたことで、モネと最初の奥さんのカミーユの出会いについても、もしかして同様のことだったのではないかと想像しました。と言うのも、シャイイ村に入る手前にとても立派な館があり、つい最近、その館が保養施設だったことを知 ったからです。ムーランからシャイイに行く道沿いのとても立派な建物です。彼ら若者もきっと気が付いたでしょう。そこが、モネとカミーユの出会いの場所ではないかと、立派な保養所と、双方の親が同郷なことと、何故か、ブーダンもモネの伯母もカミーユのことを歓迎している様子がなく、モネがシャイイに泊まりこみで描いていた大画面「草上の昼食」に、一緒にモデルになったクールベが、結婚式に出席していることなどを考え合わせると、この保養所に療養に来ていたカミーユと出会い、すぐにパリで同棲、結婚しますが、そんなことで、都会育ちで軟弱に見える彼女を、ル・アーブルの連中は歓迎しなかったのではないかと、二人の子を残し、若くして亡くなったカミーユとの出会いはどこにも語られていないようなので、小説並みに創作してみました。通説では、画家たちがモデルを探しに来るという、カフェ・ゲルボアもあった、クリシーの交差点あたりのモンマルトルの麓を彼らの出会いの場としますが、森での出会いも悪くないのではないでしょうか。当然、事実は小説より奇なりな想像もできますが。
 大通りに出て、説明しながら、喫茶店シュバル・ブロンを通り過ぎ、モネが宿代を滞納し、向かいのホテル・リオン・ドーに宿替えした話をして、教会に着き、この教会の墓地にルソーとミレーの墓があると話して、確か裏側だった記憶から、都合3度教会の周りを回ることになりました。たまたま居た人に道を聞きましたが、教会付属の墓地という意識から、そんな遠く離れているわけがないと思っているので、給水塔のそばという話も、そんなわけがないと思い、教会まで戻ってしまい、最終的に地図版を見つけ、かなり離れていることが分かり、自分の記憶の曖昧さを痛感しました。同行者の信用の失墜のはじめでした。意気揚々と墓地に入り、ルソーの墓の植え込みは以前のままで、直ぐ分かりました。隣のミレーを説明しながら、その新しさに驚きました。墓石がきれいに洗われ、設置当初と変わりがありません。いぶかしく思い。もしかして親族が、ミレーの墓を新しく作り直したのか?前に半分ぐらいの墓石があり斜めに立てかけてあり、それが元の墓なのか?しかし、墓碑銘は古いままだけれど、でも吹き付けでやれば、できなくはないなどとあらぬ妄想をくゆらせ、それをそのまま同行者に話してしまいました。これも失墜。帰宅後写真を調べると、汚れを落としただけでした。ただし、サンシエの墓のそばの木は切られ、妙な形に、絡み付いていた蔦が刈り込まれていました。木を処理する時にでも墓石に触れたのか、少しずれたままです。墓を守る親族はもう居ないのでしょうか。ルソー夫妻には子供が居なかったので、墓を継ぐ人はいないはずです。墓参りの後はいよいよバルビゾン入りです。
 絵葉書により、旧ホテル・リオン・ドーの手前の道を左に入って行くバルビゾンへの道の入り口はよく覚えています。(どうも、この記憶も怪しく、この道が間違っていたように今は思います) もう直ぐバルビゾンだと思いました。しばらく行くと道が二つに分かれています。さてどっちがバルビゾンだろうか。記憶では左ですが、自信が揺らぎます。ムーランの町見物と徒歩行程、シャイイの墓地探しでかなり時間を使い、冬の日はつるべ落とし、にはまだ暮れていませんが、気が焦ります。そこに運良く、ジャンダルム(憲兵と訳がありますが、村の警察官と言う感じです)の車を見つけ、駆け寄って、地図を見せながら訊くと、「車か」と言うので「歩きだ」と言うと、「そっちの道だけど」と言いながら、地図を指さして、「今はここ」と言い、既にバルビゾンの端についていると同行者に告げた私への信頼を簡単に打ち砕きます。「まだ遠いいぞ。送ってゆくから乗れ」と言います。私は警察の車には乗たくないので、拒否の態度を取りながら同行者に「どうする」と聞くと「いいんじゃないですか」との返事。いささか疲れていたのと、時間の問題があったので、乗せてもらいました。したがって、バルビゾン村までの徒歩旅行は完遂できませんでした。大通り(Grande Rue)の入り口でおろしてくれ、閑散とした観光客のいない初めてのバルビゾンを同行者に説明しながら、ガンヌの宿、ルソーのアトリエ、ミレーのアトリエと来て、ちょっと戻り、ミレーの井戸を見せたので、アンジェラス(晩鐘)の家の脇、ホテルの入り口から、敷地を抜けて、裏通りに出ました。前に追記した、ミレーの公園の表示はなくなり、館(現ホテル、多分ミレーの長男の家だったと解説。ミレーが所有したと思われる敷地の広さを示しましたが、既に分譲されている状態では、どこまで説明を理解できたか疑問です)に付属しているレストランが目に付きました。そういえば、大通りの一部は、交通安全のためにか、歩道が補正されていました。昔の面影はますます遠のいているようです。裏通りは、以前からジャン・フランソワ・ミレー通りと命名されていますが、ゴーグルで取った地図には表記がありません。道なりに進み、大通りとの交差点から、役場を右に折れ、フォンテーヌブローの森の入り口、単線鉄道の終点。その先にある、ルソーとミレーの顕彰碑を見て、そこでも記憶違いに驚きました。瀬木真一氏の解説にもありましたが、かってはその近くが、観光バス用の駐車場に利用されていましたが、そんな様子もなくなって、普通の森の入り口に戻っていました。そんな様変わりで、案内人としての信頼はほぼ霧散。このサイトについても、まず思い込みありき、なのかと、疑心暗鬼に駆られています。考えれば、彼らがムーランからバルビゾンまで歩いたというのも思い込みなのかもしれません。
 それよりも、既に日は落ち始め、帰りの駅を探さなければなりません。ネットには9番線の路線図があり、フォンテーヌブロー、バルビゾン、ムーランの駅名を確認してたので、どこに駅があるか探すつもりでした。しかし、しかし、しかし、鉄道はとうの昔に無くなっているとか。役場から出てきた車の人がそういいました。「バスは」と、あわてて聞きましたが、「あるけれど、ほとんど運行しない」とか「役場にはまだ明かりがついているので、聞いてみたら」と帰宅を急ぐ車は去りました。まだ、ネットの路線の存在を疑っていない私は、役場に駆け込み、若い女性が受付にいて、畳み込むように、「パリに戻りたいのだけれど、交通手段がありますか」こんな上手に言ったとは思わないけれど、返事は、「申し訳ないが、今の時間だと、タクシーしかありません」とのたまいます。「ムーランから歩いてきましたが、タクシーに乗るお金はありません。フォンテーヌブローとムーランとどっちが近いですか」と聞くしかありません。彼女はどこかへ電話して調べてくれました。「10キロ、10キロでちょうど同じです」私は未練がましく、「でもインターネットで、9番線があるのを確認してきたのだけれど」というと。奥で事の成り行きを聞いていた年配の女性が出てきて、もしかして村長さんだったかも「22番ならあるんじゃないの」と救いの手を差し伸べてくれました。結局、22A番のバスが、1本だけGrande Rueのバス停に17時55分とあります。バス停の場所をゴーグルの地図に記入してもらって、礼をいい、役場を後にしました。
 教訓。バルビゾンはあれだけ観光客でにぎわいますが、交通手段として、一応バス便はあるようですが、主に通学用で、本数は少なく、それを利用するには事前に充分調べる必要があるようです。運良く、SNCF(国有鉄道、正確には日本同様、私企業になりました)の駅からパリに戻れましたが、2時間以上かかりました。帰ってから調べると、シャイイまで戻って9番のバス停からならば、20時まで2本記載されていますが、どこ行きか、バス停名の確認も難しく、地域の人にしか利用は無理に思えます。やはり運がよかったようです。
 今回「ムーランからバルビゾンまで歩いてみたい」希望は8割達成できましたが、この探訪で分かったことは、彼らが1864年のパック(復活祭)に4人でバルビゾンに来た時は、わいわいがやがや、ムーランから森の中をふざけ合いながら歩いたとも考えられますが、その後、絵を描きにバルビゾンに通うようになった頃は、ムーランからシャイイまで、馬車を利用したのではないかとも思いました。あるいは、モネが、バルビゾンに長逗留した理由は、運賃の節約と同時に、ムーランまでの10キロ(バルビゾンからシャイイまで2キロ、シャイイからムーランまで8キロ)を足繁く歩く気がしなかったからかもしれません。年寄りの冷や水でしたが、19世紀の若者がその気になれば、充分に歩けることが確認できた貴重な歴史探訪の旅でした。しかし、冷静に内省してみれば、今日のように交通機関が発達していない時代には、人はよく歩いたであろうと言う推測で、若者たちは運賃を節約するために歩いたと想像しましたが、これも「思い込みに過ぎない」かもしれません。今回は思い込みで間違いをたくさんしてしまいました。思い込みや先入観をできるだけ排除して、真摯に探求する心を忘れてはいけません。もとより掛かる時間は考慮していなかったので、ムーランからバルビゾンまで歩いて何時間か計りませんでした。個人差、年齢差などを考慮すればあまり意味がないと思ったからです。10キロとして計算してみてください。時速5キロとすれば2時間くらいのものでしょう。こういうことは机上の計算で済んでしまうものです。私は自分の足で歩いて確かめたかったのです。自動車が通らなければ、ほとんど平坦な森の中なので、歩きやすい道でした。これからも、無知と足で、手探りの調査を続けます。報告終わり。
 書き足し。「Tramway Sud de Seine et Marne (TSSM) : la ligne Gare de Melun - Barbizon ouvrit le 27 mars 1899 et fut prolongee a Milly-la-Foret le 1er avril 1910」とあり、歩いた道の全てか、一部に鉄道が通っていたわけで、平坦な歩きやすい道であったのには理由があったわけです。私は1864年頃のモネとバジール、ルノワール、シスレーが歩いたであろうことばかりを想像していたので、このことをすっかり忘れていました。最近入手した絵葉書の端に、トラムウエイが写っていたので、気付きました。絵葉書の売り手も、この小さな蒸気機関車のことは興味がないのか、特価されず、思わぬ掘り出しものになりました。ムーランの始発駅の絵葉書と1902年発行のムーランを中心にした2万分の1の地図を手に入れ、そこにトラムウエイの路線が記載されていました。しかし、高速鉄道や大型旅客機の飛ぶ時代。コンピューターで、瞬時に世界中の情報が入手できる時代。それを考えれば、私のやっていることも、時代錯誤なのかもしれません。(仏語訳:南セーヌ・エ・マルヌ県鉄道(TSSM) ムーラン駅からバルビゾンの線は1899年3月27日に開通し、1911年4月1日にミリー・ラ・ホレまで延長されました。訳者注:トラムウエイは市電と訳されますが、昔は短距離鉄道の呼称でもあったようです)

絵葉書「バルビゾンとシャイイの鉄道」


次回に最初にこの「写真」の査定に決定的な結果をもたらした人物による思わぬ進展があります。期待してください。今回(2012/05/09)、絵葉書により、ミレーの家作の検証及び井戸の位置が判明しましたが、書き足し、書き足しで読みにくくなっているかもしれません。しかし、調査継続の証として、しばらくこのままに、と思いましたが、読みにくく、(2013/01/26) 一部整理し、書き直しました。
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