ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る
「写真」の若者 | セザンヌの肖像写真 |
奥の少し年配の若者 | ドガ自画像デッサン | ドガの油彩肖像画 | ドガ自身の撮影1895年 |
ドガと思われる若者 | ドガの母親の肖像画 |
早速、印象派の美術史年表を調べると「印象派の年表、1863年〜1905年」(1981年刊)と言う表題の展覧会カタログの中に「1863年:モネとバジールが6番地のフルステンベルグでアトリエのドラクロワを観察した」とあり、次に「パック(復活祭)をシャイイ・エン・ビエール(フォンテーヌブローの森)で過ごした」とあるのに続き「セザンヌはアカデミー・スイスで、彼の構図はとても暗いロマン派である」と記載があり、「1864年:モネ、ルノワール、シスレー、バジールが通っているアトリエ・グレールが閉鎖される」とあり、続いて「若い画家達がバルビゾン派の画家達と接触した。 モネ、ルノワール、シスレー、バジール達がシャイイに行った」と箇条書きにしてありました。1863年の「シャイイで過ごした」とある文章の前の主語はモネとバジールなので、次の文章の主語も彼等と思われ、とすると彼等は2年続けてシャイイ村へ行っている事になります。 | 印象派の年表 カタログ表紙 |
1994年、第一回印象派展から120年経った年に、ニューヨークのメトロポリタン美術館の学芸員とパリのオルセー美術館の学芸員が共同で企画した、「印象派、その起源」展がグランパレで開催されました。早速、展覧会を観て、カタログを購入、ビデオも入手しました。 その結果、「印象派の年表」に箇条書きにされている、若き印象派たち、というより、まだ印象派になる前の、画学生の彼等がグレールのアトリエで一緒になっていることが少し詳しく書かれていました。当然、彼等とは、ルノワール、シスレー、モネ、バジールです。 そして、彼等は、前記、ビリーの「バルビゾンの好日」に書かれていた、1861年から既にバルビゾンに写生に行っていたシスレーの提案で、パックをシャイイで過ごすことにしたのではないかとの記述があり、それが正確に何年の事かは不明ですが、1863年か1864年の何れかのようです。しかし、前記同様、ドガ及びセザンヌが彼等と行動を共にしたという記述は見当たりません。【追記2006/10/23:1863年5月23日(土曜日)のシャイイからアルマン・ゴーチエに宛てたモネの手紙で彼がシャイイに滞在していることが判り、1863年のパックをバジールとシャイイで過ごしたことが確認できます。その上、そのまま長期滞在し、グレールのアトリエを休んでいる言い訳をしています。カタログの記述にこだわった為、年代を不明としてしまいましたので、改めて追記しました。】 | 印象派、その起源 カタログ、カセット |
となると、先ずは | ルソーと間違えた | ← 彼を探すことになります。 |
実は、「ラ・バルビゾニエール」の挿図にそれらしき人物を、ルソーの肖像写真と共に見つけ、その彼が、モネがシャイイ村で戸外制作していた「草上の昼食」を仕上げられず、代わりにサロン展に出品した「緑の服の女」を評価していたので、それを基にした物語を創ると、美術評論家なので、彼との関係が査定した他の画家達の間にすんなり納り、加えて、ベルギーに亡命していた関係で、ミレーが最初に「晩鐘」を売ったベルギー人プリエとの関係も考えられ、仲介のためか、1860年にフォンテンブローに滞在し、ミレーと会った記述も見つかり、まったく疑問を持たず査定を済んだものとしてきましたが、今回、改めて確認する事にします。
「ラ・バルビゾニエール」表紙です。→ |
左右反転 |
左右反転 |
ここで1839年当時の姿を | シャリヴァリ紙の戯画 | 偶然でしょうが、 帽子が似ている ひげに注意! |
デュプレの肖像写真 |
従って、ミレーより年配に見える年齢を考慮して、トレ以外の可能性を探すと、かってルソーと仲が良かった、デュプレの肖像写真を、ルソーを撮ったと同じ写真家、カルジャが撮影していました。 体型的に肥満過ぎますが、下膨れの顔立ちと鼻の下のひげの様子が似ています。「写真」に写っている人達の年齢差(見た目の判断ですから、数年の差は考慮しても)から、似ているからといって、誰彼なく人物を割り当てるわけにいかず。逆に年齢と状況から、似てないのに「誰々であろう」と人物査定することもできず。今回のように、テオフィル・トレ(1807年生まれ、ミレー1814年、ブーダン1824年生まれ)が年齢的にも、人間関係でも大いに可能性がありましたが、ひげがまったく違い。髪型同様、人為的に変更可能とは言え、ひげはかなり重要な要素と考えられます。デュプレは1811年生まれで、人間関係も問題ありませんが、鼻の下のひげはよしとしても、あごひげが違い、全体の雰囲気も違い、詳細な検討には耐えません。デュプレも却下。 |
ジゴー | |
レピーヌ自画像 | 「写真」の人物 | カルス自画像 | ディアズ肖像版画 |
ここに、蚤の市で手に入れた一枚の石版画があります。 | 「亡くなった娘を描くティントレット」 コニエ作 ボルドー美術館蔵 |
オンフルールのブーダン美術館でのカルス展(1990年)の小さなカタログを見付け、その中にカルスと1848年頃から知り合いの馬具工兼役者だったピエール・フィルマン・マルタン(通称マルタン親父。ブーダンと同郷の親友でブーダンの文通相手だったフェルディナンド・マルタンとは違います。)が画の商売を始め、成功し、彼のモガドールの店が芸術家の溜まり場になり、ミレーの画も扱っていたと書いてあるので、そこで出会っている可能性はありますが、想像の域を出ません。 | カタログ表紙 |
カルス晩年 |
没時のミレーのアトリエ 1875年(前掲載) | ドウインが修復したミレーのアトリエ 1923年 |
ミレーのアトリエ | ミレーのアトリエの入口 ドウイン版 |
「晩鐘」を描いたミレーの家とあり、前掲載の絵葉書に続く部分と思われます。【訂正】(未亡人の写っている)絵葉書には細い丸煙突が2本出ていて、その比較で、この絵葉書の右側が大通りに面しているとすれば、レンガの煙突の存在から、絵葉書にある「ミレーの家」に続く棟とは思えず、別棟の可能性があります。 前掲載の絵葉書から、井戸を敷地に持つホテルが「晩鐘」と見晴らしを名に選んだことを考えると、この家の敷地にホテルが建てられたと考えられ、絵葉書のタイトルが推測を裏付けするように思います。 | ミレーの家‐階段 ドウイン版 |
先頭 |