写真:ミレーと6人の画家たち
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


6.ブーダンを手掛かりに次から次へと


結局タイトルは変えないことにしました。

ブーダンがモネの最初の画の先生であったということから、「写真」に写っている若者は、「モネの可能性がある!」と思いました。しかし、若者は三人写っています。一人は少し年配でひげを生やしているので、モネとブーダンの年齢差、16歳を考慮すると彼は除外していいでしょうが、二人います。どっちだろう? 一人は顔がぶれ、もう一人はグラスを口に運んでいるので、鼻と口の部分がわかりません。

「写真」の若者三人
「写真」に写っている三人の若者

いずれにしろ、若いモネを探さなければと、いろいろ調べました。印象派の本は数多く出版されています。しかし、若い頃の彼等の肖像写真が掲載されている本となると中々直ぐには見つかりません。ちなみに、ブーダンの査定の手がかりになった「印象派百年」展のカタログの末尾の画家紹介のモネの項には1875年にルノワールによって描かれたモネの油彩肖像画が掲載され、ルノワールは1877年制作のデブータンの銅版画による肖像、セザンヌは1873〜76年制作の油彩自画像、ドガはやはりデブータンの1876年制作の銅版肖像画、シスレーはやはりルノワールの1874年制作の油彩肖像画でした。従って、若い頃の肖像はありません。
 1980年にグラン・パレで開催された「モネ」展のカタログには、功なり名を遂げたジヴェルニーでのモネの姿が写真として収められていますが、若い時の肖像写真はありません。 若い頃の肖像写真、若い頃  ・・・・・・・・。
 考えてみると、印象派研究者にとって、若い時の彼等の業績を評価する筈はなく、従って、「印象派百年」展の肖像の選び方が、第一回印象派展頃の肖像を選ぶことになり、正しい選択でしょう。若い時の肖像を探すなら文献の探し方を絞り、「若い時期を対象にした画家の伝記」等を考えなければならないと思いました。

そうこうする内、グラスを口に運んでいる方の若者に思い当たる顔が浮かびました。セザンヌです。額の広さ、目の鋭さ、印象派の若者を追いかけていて見つけたセザンヌの肖像写真。「これは一大事、大変なものを見つけてしまった」とその時思いました。しかし、「モネとセザンヌが若いときに一緒にバルビゾンまで行くほど親しかった話は聞いたことがない」気がするが?逆に、もし本当にセザンヌならば、「将に大発見、美術史の常識が覆る・・・・・。」 しかし、確証になるものは何も見つけられませんでした。

「写真」の若者の内の一人
「写真」の若者
セザンヌの肖像写真
セザンヌの肖像写真

画像の著作権に関して、「昭和31年(1956年)12月31日迄に製作された写真は、著作権が失効して います。→写真を複製して使用する場合、著作者の許諾を必要としません。」(インターネットの「写真の著作権について」より)としても、所有権等が発生するとか、しかし、既に一般公開されているものに関しては文化財産として共有されたものとみなされ、それらの権利も生じないと言うことです。それでも、何らかの権利を侵害している場合は、連絡頂ければ速やかに対処いたします。

ブーダンはほぼ確証を持ちましたが、ミレーの次がモネ、そして、セザンヌ。今のところ、確証の得られない、美術史上の大きな名前。そんな彼等が一緒に写っている写真が今まで世に出ていない、そんなことってあるんだろうか? 改めて写真を見直す日々ですが、裏付けになる資料は見当たりません。

その内、彼等より奥にいる、多少年配の若者に視点が集中します。ドガだ! 焦点が合って行きます。ドガだ!特徴のある目、鼻筋、口髭、信じられないが、視覚からくる印象がドガだといってくる。ドガだ!間違いなくドガだ!見つけた肖像がドガの特徴を「写真」の人物にダブらせる。   こんなことって!

「写真」の奥の若者

奥の少し年配の若者

ドガの自画像デッサン

ドガ自画像デッサン
ドガの油彩肖像画

ドガの油彩肖像画
ドガが自分で写した写真

ドガ自身の撮影1895年

今回の比較の顔・画像の著作権に関して、明確ではありません。今後、このサイトを続けるに当たって、例えば、油彩画など、色彩をつけない画像ならば完全なコピーとは言えないので、許可されるのかどうかなど、ご存知の方は、著作権に抵触しないで比較的自由に画像が使用できる方法を教えてください。今回は、なるべく、「写真」の人物に似た自画像を選んだので、手持ちの1956年以前の画像を使用せず、新しいカタログ等の画像をスキャンして、色彩をなくし、顔の部分だけ切り抜き、掲載しましたが、やはり、著作権に抵触するのでしょうか?

しかし、ドガが若い時、モネ、セザンヌなどと行動を共にしていたという話は見つかりません。しかし、視覚からはドガであると迫ってきます。ドガの伝記に母親の肖像画が載っていたので、ミレーの査定同様、母親の顔との比較を試みてみましょう。

ドガと査定した若者
ドガと思われる若者
ドガの母親の肖像画
ドガの母親の肖像画

如何ですか? ドガの母親の肖像と、この「写真」の若者は似ていませんか?

ここまで読んでこられて、この話が信じられるでしょうか? この話と言うよりもこの「写真」が物語りつつあるものが信じられるでしょうか?

何れにしろ、若い時の彼等の行動を先ず調べなければ、想像と空想だけで空回りしていては埒が明きません。

 : これ以後の部分は、前頁のモネが1865年にシャイイ村に泊り込んで大画面を制作した年代と多少前後しますので、ご注意ください。

早速、印象派の美術史年表を調べると「印象派の年表、1863年〜1905年」(1981年刊)と言う表題の展覧会カタログの中に「1863年:モネとバジールが6番地のフルステンベルグでアトリエのドラクロワを観察した」とあり、次に「パック(復活祭)をシャイイ・エン・ビエール(フォンテーヌブローの森)で過ごした」とあるのに続き「セザンヌはアカデミー・スイスで、彼の構図はとても暗いロマン派である」と記載があり、「1864年:モネ、ルノワール、シスレー、バジールが通っているアトリエ・グレールが閉鎖される」とあり、続いて「若い画家達がバルビゾン派の画家達と接触した。 モネ、ルノワール、シスレー、バジール達がシャイイに行った」と箇条書きにしてありました。1863年の「シャイイで過ごした」とある文章の前の主語はモネとバジールなので、次の文章の主語も彼等と思われ、とすると彼等は2年続けてシャイイ村へ行っている事になります。印象派の年表・1863年〜1905年展のカタログ表紙

印象派の年表
カタログ表紙
 「写真」に写っている若者は二人です。そしてセザンヌはアカデミー・スイスとあり、アトリエ・グレールで学んでいる彼等とは一緒ではないようです。となると、モネと行動を共にしているバジールと言う若者を調べる必要が生まれます。しかし、彼等より5、6歳年長のドガとの関係がどの様にして生まれたのか今のところ明確ではありません。
 1994年、第一回印象派展から120年経った年に、ニューヨークのメトロポリタン美術館の学芸員とパリのオルセー美術館の学芸員が共同で企画した、「印象派、その起源」展がグランパレで開催されました。早速、展覧会を観て、カタログを購入、ビデオも入手しました。
 その結果、「印象派の年表」に箇条書きにされている、若き印象派たち、というより、まだ印象派になる前の、画学生の彼等がグレールのアトリエで一緒になっていることが少し詳しく書かれていました。当然、彼等とは、ルノワール、シスレー、モネ、バジールです。
 そして、彼等は、前記、ビリーの「バルビゾンの好日」に書かれていた、1861年から既にバルビゾンに写生に行っていたシスレーの提案で、パックをシャイイで過ごすことにしたのではないかとの記述があり、それが正確に何年の事かは不明ですが、1863年か1864年の何れかのようです。しかし、前記同様、ドガ及びセザンヌが彼等と行動を共にしたという記述は見当たりません。追記2006/10/23:1863年5月23日(土曜日)のシャイイからアルマン・ゴーチエに宛てたモネの手紙で彼がシャイイに滞在していることが判り、1863年のパックをバジールとシャイイで過ごしたことが確認できます。その上、そのまま長期滞在し、グレールのアトリエを休んでいる言い訳をしています。カタログの記述にこだわった為、年代を不明としてしまいましたので、改めて追記しました。】
印象派、その起源展カタログ表紙

印象派、その起源展のビデオカセット

印象派、その起源
カタログ、カセット

ここで、前頁の、1865年のシャイイ村での大画面制作年代につながって行きます。

「印象派、その起源」のカタログにはきちんとバジールが取り上げられていますが、モンペリエのブルジョワの子息であるバジールは1870年に勃発したフランスの危機に国民軍に志願し、普仏戦争に従軍し、第一回印象派展の開催される4年前に、28歳の若さで戦死してしまい、1874年に開催された印象派展に参加していないため、ヨットの設計家でもあり、親の膨大な遺産を相続し、途中から印象派展に参加し、仲間の印象派の画を買い、国の美術館に遺贈した(一度は拒否されましたが)カイユボット同様に、印象派の画家、モネ、ルノワール、ドガ、シスレー、ピサロと比べると知名度が低いようです。

○ ここで、ブーダンの先(より若い人たち)に査定調査を進めていますが、ミレーの方(より年配者)に戻ってみようと思います。

となると、先ずはルソーと間違えた ルソーと思った「写真」の人物← 彼を探すことになります。

実は、「ラ・バルビゾニエール」の挿図にそれらしき人物を、ルソーの肖像写真と共に見つけ、その彼が、モネがシャイイ村で戸外制作していた「草上の昼食」を仕上げられず、代わりにサロン展に出品した「緑の服の女」を評価していたので、それを基にした物語を創ると、美術評論家なので、彼との関係が査定した他の画家達の間にすんなり納り、加えて、ベルギーに亡命していた関係で、ミレーが最初に「晩鐘」を売ったベルギー人プリエとの関係も考えられ、仲介のためか、1860年にフォンテンブローに滞在し、ミレーと会った記述も見つかり、まったく疑問を持たず査定を済んだものとしてきましたが、今回、改めて確認する事にします。
「ラ・バルビゾニエール」表紙です。→ 
「ラ・バルビゾニエール」の表紙
   
「バルビゾニエール」の挿画フラマン作銅版画「トレの肖像」
「バルビゾニエール」掲載の挿図(左)の原版画(右)を見つけたので、並べて掲載しておきます。

この版画家フラマンによるトレの銅版肖像画が「バルビゾニエール」に挿画として掲載されているのを見たとき、「写真」の人物がルソーでなければ、彼、テオフィル・トレ(筆名、ウイリアム・ビルガー或いはトレ・ビルガー)である可能性は考えられると思いました。改めて、顔だけを比較して見ます。

「写真」の人物トレ肖像銅版画「写真」の人物左右反転
左右反転

何となく似ているので、ルソーでなかったその反動と、モネの「緑の服の女」を高く評価したとある記述に飛びつき、トレと査定しましたが、今回、改めて比較、検討すると、ひげの形も色も違い、顎ひげにより顎の形がきちんと比べられません。「写真」の人物は口ひげを分けて整え、顎の部分は生えないのか、剃っているのかひげはなく。鼻の直ぐ下は濃く見えますが、ひげの色は白く、頬はふっくらしています。版画のトレはどちらかと言うと頬はすっきりしています。ひげに白いものが混じっているようですが、全体は黒々しています。耳の形も違うように思いましたが、よく見ると耳の先が髪に隠れているようでもあり、はっきり形を確認できず、違うということもできません。ただ、鼻翼の横の頬のふくらみが版画にも、「写真」の人物にも見られること、目は大きくも、切れ長でも、目じりが上がってもいず、同じような目つきをしているのは確認できます。今一度、たぶん版画の肖像の基になったのと同じナダール撮影の肖像写真と比べてみましょう。いやな予感がしはじめました。

「写真」の人物ナダール撮影トレ肖像写真「写真」の人物トレ版画肖像画左右反転
左右反転

この比較で、ナダールの肖像写真と「写真」の人物の鼻翼の形は似ているようですが、鼻の長さが少し違うようです。あごの張り方も違うように思います。角度の違いでしょうか?よく見ると、まったく違うともいえないようです。しかし、ひげの形と色の違いをどう考えたらいいでしょうか?ひげの形は好みに作り変えればいいだけだけれど、色までは変えることができるのだろうか?色抜きをすればいいのだから、難しくはないだろうが、そうする必然が何処にあるだろうか? ヴィクトル・ユーゴー同様に、ナポレオン三世統治下のパリからベルギーに亡命していて、恩赦が出た1860年以降にパリに戻りますが(ユーゴーは戻りません)、撮影当時は亡命から帰ったばかりで、昔からのひげの形と色を変えていたのだろうか? 少し無理があるように思えます。ナダールの写真撮影時期は1865年頃とありますが、事実確認はできません。1865年頃と言うのは、亡命から帰国後として年代を想定したものか?はっきりした根拠があるのであろうか?何故ならば、ナダールの写真のトレのひげが1839年のベンジャマンの戯画のトレのひげと同じ(当然、戯画なので誇張してありますが、それを考慮すれば、まったく同じ)なので、26年間変わらないひげもおかしいのではと思ったわけです。
ここで1839年当時の姿をシャリヴァリ紙掲載トレの戯画
シャリヴァリ紙の戯画
「写真」の人物
ナダールのトレ肖像写真
偶然でしょうが、
帽子が似ている



ひげに注意!

ここで考慮できる事は、ナダール撮影の写真が確かに亡命から帰国後のものならば、「写真」の人物はトレではない。もし、ナダール撮影の写真が亡命前、或いは亡命(多分パリのスタジオ以外ではまだ撮影をしていないと思うので、トレがお忍びでパリに来ない限り可能性はない)の時に撮られたとすると、「写真」の人物は帰国後、ひげの形を変えた、亡命の苦労でひげが白くなった、帰国できた満足感から太って頬が膨らんだなどと想像すると、トレである可能性も否定できませんが、ナダールの写真と似た肖像写真が、トレ・ビルガーのコレクションの売却カタログに掲載されていましたが、となると、亡命から帰国後のものと思われますので、可能性は非常に少なくなると思います。

余分なものを取り去った顔だけを、比較してみましたがどんなものでしょうか?
「写真」の人物ぼかし
「写真」の人物ぼかし・ひげなし
トレ肖像版画ぼかし
トレ肖像版画ぼかし・ひげなし
顎ひげを取ってみました。

見てお分かりと思いますが、雰囲気が似ていたため、ひげの違いを特に考慮することなく、トレと査定し、それを基に、調べ、書き、まとめました。その時は銅版画肖像しか資料がなく、その後、ナダール撮影の肖像写真があることを知りましたが、既に頭の中ではトレと断定されていたので、特に再検討することなく過ごし、今回改めてかなりしつこく比較検討すると、やはり予感は的中、ひげの違いはいかんともしがたく、その上、鼻も微妙に違うようで、トレではないと断定します。このことで、他の人物の査定に支障があるとは思いませんが、やはり色々な部分を書き直す必要はあるでしょう。

デュプレの肖像写真
デュプレの肖像写真
  従って、ミレーより年配に見える年齢を考慮して、トレ以外の可能性を探すと、かってルソーと仲が良かった、デュプレの肖像写真を、ルソーを撮ったと同じ写真家、カルジャが撮影していました。
 体型的に肥満過ぎますが、下膨れの顔立ちと鼻の下のひげの様子が似ています。「写真」に写っている人達の年齢差(見た目の判断ですから、数年の差は考慮しても)から、似ているからといって、誰彼なく人物を割り当てるわけにいかず。逆に年齢と状況から、似てないのに「誰々であろう」と人物査定することもできず。今回のように、テオフィル・トレ(1807年生まれ、ミレー1814年、ブーダン1824年生まれ)が年齢的にも、人間関係でも大いに可能性がありましたが、ひげがまったく違い。髪型同様、人為的に変更可能とは言え、ひげはかなり重要な要素と考えられます。デュプレは1811年生まれで、人間関係も問題ありませんが、鼻の下のひげはよしとしても、あごひげが違い、全体の雰囲気も違い、詳細な検討には耐えません。デュプレも却下。

ナダールの写真集を眺めていて、ひげの似ている同年代の画家が見付かりました。ジゴー1806年生まれです。解説にロマン派と写実派の間を揺れ動いたとあり、トレとチャールス・ブランに高く評価され、ボードレールには作品にむらがあると批判されました。バルザック(1799〜1850)の没後、バルザック-ハンスカ夫人は彼と一緒になったとあり、「写真」撮影当時は既に一緒ということになります。比較してみます。


「写真」の人物ナダール撮影ジゴー肖像写真
ジゴー
ジゴー肖像写真角度変更「写真」の人物
「写真」に人物ぼかしジゴーの肖像写真ぼかし

余分なものを消すとかなり近しい気もしますが、ナダール撮影の肖像写真は1855年頃と年代が入っています。年代査定からすると8年ほど違い、「写真」の人物は8年ほど齢を重ねている事になります。ジゴーは反り返った姿勢で写真に写っているので、顔の部分の角度を修整して比べてみました。ひげの形は年代により少し変えたと考え、やはり歳を経て少し太って頬が膨らんだと考えれば、似てなくもありません。耳の位置、形も特に問題はないようです。ただ目を細めているせいかジゴーの目は横に長めです。それと比べ、「写真」の人物の目はどんぐり眼ではありますが大きくは見えません。この写真の比較だけでは査定はできないようです。十年近くトレと思って来た身には、全てを初めから調べ直すのはしんどい事ですが、やらなければなりません。時間稼ぎに、その隣の人物、ミレーとの間にいる人物に話を移しましょう。




彼に関してはまったく闇の中でした。最初、バルビゾンで一番人気者であった、ディアズではないかと思いましたが、10歳の時マムシに噛まれ、片足が義足だったという事で、該当せず、2匹目の泥鰌ではないけれど、「印象派百年」展のカタログを所在無く眺めていると、なんとなく似ている画家が、二人見つかりました。

レピーヌ作油彩自画像
レピーヌ自画像
「写真」のカルスと思われる人物
「写真」の人物
カルス作油彩自画像
カルス自画像
ディアズ肖像版画
ディアズ肖像版画

今回は、年齢を先ず考慮して、レピーヌは1835年生まれで、ドガより1歳若く、1810年生まれのカルスの方が可能性としてあるので、カルスを選んで調べる事にしました。カルスは既にブーダンとの繋がりが判明しています。その上、解説の中に「画題に於いてミレーとの関連が認められる」とあるので、ミレーを査定した後では、大いに可能性を感じます。後で判明しましたが、貧しい労働者を多く描いています。

ここに、蚤の市で手に入れた一枚の石版画があります。
カルス作コニエ「亡くなった娘を描くティントレット」の複製石版画
石版画に記されたカルスの名前
コニエ作油彩画「亡くなった娘を描くティントレット」

「亡くなった娘を描くティントレット」
コニエ作 ボルドー美術館蔵
先生のレオン・コニエの1843年のサロン展で評判になった油彩「亡くなった娘を描くティントレット」(ボルドー美術館蔵)を石版画でカルスが複製したものです。石版画の制作年代は不明ですが、「ベネディット美術家事典」のカルスの略伝に、貴族の娘である妻を精神病院に入れなければならず、その気質を継いだ為、精神的に不安定なひとり娘を抱えて苦労したと書かれている事から、ある予感、或いは感慨を持ってこの画を複製したのではないかと思います。(パリで先妻を肺結核で亡くし、一時、郷里ノルマンディーに戻った折に知り合った家政婦をしていた若いカトリーヌと一緒に再びパリに戻ったものの、その時流行り始めたコレラから逃れる為、バルビゾン村に移り住み、1863年迄に9人の子をなした)ミレーとカルスとは画題以外で繋がるものが何かあるのでしょうか?

オンフルールのブーダン美術館でのカルス展(1990年)の小さなカタログを見付け、その中にカルスと1848年頃から知り合いの馬具工兼役者だったピエール・フィルマン・マルタン(通称マルタン親父。ブーダンと同郷の親友でブーダンの文通相手だったフェルディナンド・マルタンとは違います。)が画の商売を始め、成功し、彼のモガドールの店が芸術家の溜まり場になり、ミレーの画も扱っていたと書いてあるので、そこで出会っている可能性はありますが、想像の域を出ません。カルス展カタログ表紙
カタログ表紙

結局ミレーとの関係では今一つはっきりしたものは出て来ませんが、ブーダンと友達の同郷の画家ドュブールグがカルスと同時期、美術学校でコニエに学んだ関係で彼らはオンフルールで交流があった事が判り、その上、アメリカで出版された「一八三〇〜一九〇〇年のフランス絵画とデッサン」のカルスの項に掲載された晩年のカルスの肖像写真に「写真」の人物の面影を見出し、ブーダンとの繋がり、自画像とこの晩年の肖像写真とから、カルスと推定して良いと思います。

カルス油彩自画像「写真」の人物カルス晩年の肖像写真
カルス晩年

この2点の肖像の面影からと、ノルマンディーにおけるブーダンと周囲の画家仲間の繋がり、印象派展への参加、画題におけるミレーとの類似、加えて後に判明するモンマルトルの居住所で、年代的にも他の画家とのつながりが明瞭なのでカルスと査定する事に無理はないと思います。

尚、カルス晩年の写真に関する著作権は、図書館で再度書籍の確認をしようとしましたが見付からず、コピーのコピーで不鮮明なまま掲載しました。それでも著作権に抵触するのでしたら、連絡くだされば、速やかに対処いたします。

一応、今回はここで、ページを閉じ、若者二人の査定、及び、ひげの人物の査定は次回に回します。





最近入手した興味深い絵葉書をまとめて掲載します。

絵葉書、没時のミレーのアトリエ1875年
没時のミレーのアトリエ 1875年(前掲載)
ドウイン制作絵葉書、ドウインが修復したミレーのアトリエ1923年
ドウインが修復したミレーのアトリエ 1923年
ミレー没後直ぐに写された写真(左)を基に、ドウインがミレーのアトリエを復元し、絵葉書(右)にしたものです。細かく見ると、何が没後の写真と違うか分かり、良く復元されているのが分かりますが、ミレーのアトリエがそっくりそのまま残されていたのではない事も分かります。そして、指物師によって新たに作られたという説明がなければ、訪問者はミレーの使っていたものがそのまま保存されていたと思い込むことでしょう。

絵葉書、大通りから見たミレーのアトリエ
ミレーのアトリエ
ドウイン制作絵葉書ミレーのアトリエへの入口
ミレーのアトリエの入口 ドウイン版
絵葉書、ミレーの家、前掲載絵葉書に続く部分、後年
「晩鐘」を描いたミレーの家とあり、前掲載の絵葉書に続く部分と思われます。【訂正】(未亡人の写っている)絵葉書には細い丸煙突が2本出ていて、その比較で、この絵葉書の右側が大通りに面しているとすれば、レンガの煙突の存在から、絵葉書にある「ミレーの家」に続く棟とは思えず、別棟の可能性があります。

前掲載の絵葉書から、井戸を敷地に持つホテルが「晩鐘」と見晴らしを名に選んだことを考えると、この家の敷地にホテルが建てられたと考えられ、絵葉書のタイトルが推測を裏付けするように思います。
ドウイン制作絵葉書、ミレーの家の階段
ミレーの家‐階段 ドウイン版




長い間、「トレ」と思い込んでいた人物が、今回の査定見直しで別人である事が判明し、では誰なのかとなると、再度、記憶を辿り直しても、それらしい人物が直ぐには見つかりません。「テオフィル・トレ」は、モネ等、印象派の若い画家を最初に認めた美術評論家で、文献上、査定された画家全員と繋がりがあり、且つ、年齢的にも適正で、19世紀半ばの美術界に、重要な役割を果たした、最適な人物として、間違いないと思っていましたが、ひげに対する検証が甘かったようです。

次回は再び若者の査定から始めるつもりです。

説明を付けずに使用した絵画像に関して著作権の問題をまとめておきます。ドガの母親の肖像画はドガの伝記から、レピーヌの自画像とカルス自画像は「印象派百年」展のカタログから、コニエ作「亡くなった娘を描くティントレット」は文庫本の口絵からスキャナーで取り込みました。著作権情報センターによれば「絵画に関して作者の死後50年〜70年を経たものについては著作権はなくなり、人類共通の財産になる」と言う事です。従って、スキャナーで取り込んでホームページに使用できるので、著作権の発生はないものとして掲載しました。万が一、何らかの権利が絵画所有者に発生する場合、連絡いただければ速やかに対処いたします。
先頭

著作権について 著作権に関しては充分配慮していますが、万が一著作権に抵触する場合、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますのでメールにてお知らせください。このサイトは、偶然見つけた写真に写っている人物を如何に査定したかを物語ったもので、どうしても画像による説明が必要になります。営利を目的に画像を使用しているわけではない点を著作権者様にご理解をいただき、掲載許可をいただけたら幸いです。また、読者の皆様におかれましては、著作権に充分のご配慮をいただき、商用利用等、不正な引用はご遠慮くださいますよう、よろしくお願いいたします。

ご意見、ご感想をメールでお寄せください。enomoto.yoshio@orange.fr