ミレーについて
ミレーを中心に、他に6人の現役及び初心の画家たちが写っている写真を物語る


ミレー年譜
シャイイ村の墓地の写真


1814
 10月4日、北フランス、ノルマンディー地方の軍港を持つ大都市シェルブールの西、グレヴィル自治区グリュシー村の篤農家の上に姉のいる8人兄弟の長男として生まれる。
1833
 画の勉強にシェルブールへ出る。
1835
 画家から鑑定家になり最終的にルーブル王立美術館の鑑定委員になった、ノルマンディー出身のトマ・アンリが南仏モンペリエにできたファーブル美術館を参考に郷里に美術館を造るのを夢見、古今の名匠の作品を集めたコレクションがこの年に公開され、ミレーも模写に通い、2年間で36点を模写したということです。この頃に、シェルブールの書店の店員であったフアルダンと出会っているのではないかと想像されます。
1837
 シェルブール市の奨学金を得てパリへ出ます。
1840
 先年ローマ賞のコンクールにも、サロン展にも落ち奨学金も打ち切られ、この年のサロン展に望みをかけ、何とか1点の肖像画が入選、それを機に、郷里の町シェルブールに戻り、肖像画家として出発。
1841
 亡くなった市長の肖像を依頼されたが似ていないということを理由に引取りを拒否され、11月祖母も家柄が釣り合うと認める洋服屋の娘ポリーヌと結婚、パリへ出ます。
1844
 4月、ポリーヌ結核で死亡。この年2点がサロン展に入選。再び郷里の町シェルブールへ戻ります。
1845
 シェルブールで家政婦カトリーヌと出会い、セーヌ河口の港町ル・アーブルへ、そこから12月に3度目のパリへ。
1846
 7月、長女マリー誕生。
1847
 7月、次女ルイーズ誕生。
1848
 二月革命が起こり、立憲君主制が崩壊、市民王ルイ・フィリップがイギリスに逃げ、第二共和制の下、選挙で予想に反して、ナポレオン一世の甥、ルイ・ナポレオンが大統領に選ばれる。
1849
 1月か2月に長男フランソワ誕生。
 パリにコレラ蔓延す。
 政府買い上げの支払いがあり、ジャックと共にバルビゾンに移住し、生涯を過ごすことになります。
1850
 サロン展に「種をまく人」 (1) 「干草を束ねる人たち」を出品します。
 12月三女マルグリット誕生。
1851
 ボストン出身で、パリでクチュールに学んでいたハントがミレーを慕ってバルビゾンに住み付く。
1850
 5月、祖母没。葬式に出ず。
1852
 ルイ・ナポレオン、皇帝ナポレオン三世となり、第二帝制時代始まる。
1853
 4月、母没。1845年以来初めて郷里グリュシーに帰り、遺産で継ぐ土地を放棄し、替わりに本と本棚を譲り受けます。
 9月バルビゾンで、ルソー、ハントらの立会いのもと、カトリーヌと正式に結婚します。
1854
 画が売れ思わぬ金が入り、家族で夏をグリュシーで過ごします。カトリーヌにとっては初めての里帰りでしょう。多分この時、フアルダンがダゲレオタイプの写真機で家族を銀板写真に撮ったと思われます。
1855
 ハントの代わりにウイーライトがバルビゾンに来て9ヶ月留まる。後に彼はミレーについて記事を書く。
 第一回パリ万国博覧会が開催され、美術展でアングル、ドラクロワ、ルソー、フランセなどが特別展示され、クールベは大作が拒否されたので、会場近くに展示館を設営、個展を開催。

 同時に開催されたサロン展にミレーは2点落展しますが「接木をする農夫」が入選、ルソーがアメリカ人の偽名を使ってこの作品と他1点を購入します。コローがドーミエの追い立てられていた家を買い取りプレゼントしたと同様なエピソードです。
1856
 3月四女エミリー誕生。
1857
 サロン展に「落穂拾い」 (2) を出品、耕す土地さえ持たず、刈り取りで残った落穂を拾う、貧しい農民を描いたといわれ、賛否両論の批判にさらされます。
 6月次男シャルル誕生。
1860
 月千フランでその月描かれた作品をすべて引き渡すという契約を画商を通してかわし、経済的に安定します。後にこの契約は裁判沙汰になり、ミレーにとってよい思い出ではなく、正確に誰が契約相手か曖昧になっています。仲介役の画商はスティーヴンスとブランということですが、パリで著名なベルギー出身の画家スティーヴンスの弟とその妻の兄らしい位で、詳細な契約内容もよくわかりません。
1861
10月、三男ジョルジュ誕生。
1863
 普通、ミレーの年賦には記載されない、落選者展が開催されました。この年の審査が厳しく、多数の落選者が出て、騒ぎになっている時、たまたま審査会場を訪れたナポレオン三世は入選者と落選者の作品の差がわからず、別館を設けて、展覧し、大衆の審判に委ねるということにしました。この時、マネの「草上の昼食」がスキャンダルになったことで美術史で特筆される展覧会です。
 この時にミレーは三点がサロン展に入選し、中でも「鍬の男」が「落穂拾い」より直接的な表現として、賛否両論の批判にさらされ、展覧会開催後の好日に仲間達がバルビゾンにミレーを訪ねて励ました時に撮影されたのが今回新発見のミレーの肖像写真と査定しました。
 11月、六女マリアンヌ誕生。最後の第九子目です。しかし、ミレーが連れ歩くこともなく夭折します。
1865 
 「晩鐘」 (3) が初めて公開展示さました。「晩鐘」は1859年に完成。翌年には千フランで、この年に個人契約をしたのではないかと思われる、ベルギー人プリエに売られ、プリエが画を交換し、テスの所有になり、1865年ガヴェの所有に、この間に公開展示されたようです。1872年ガヴェが破産、ブリュッセルのウイルソンの所有になり、1881年セレクタンコレクションに入り、1889年クリスティーの競売にかけられ、最終的にアメリカに渡ります。1890年デパートの社長ショシャールにより80万フランで買い戻され、再びフランスへ、シャンシャールの死後、1909年ルーブル美術館に遺贈されたと言うのが、「晩鐘」の歴史です。
1867
 第二回パリ万国博覧会が開催され美術展においてミレーの回顧展が国によって企画される。この時、一回目同様、クールべは個人館を設営、マネも個人で展示館を開きます。美術展に統合されて、この年のサロン展はなし。
12月、ルソー逝く。 
1868
 ミレー、レジョン・ドヌール勲章シュバリエ(5階級の1番下)を受ける。ルソーは1852年にシュバリエ、昨年オフィシエ(1階級上)のレジョン・ドヌール勲章を受けています。
1870
 サロン展審査委員に選ばれますが、コロー、ドービニーが辞退し、ミレーも辞退します。この年がミレーの最後のサロン展出品になりました。
 普仏戦争起こり、ナポレオン三世、セダンで捕虜になり、第二次帝制終焉。
 8月、ミレー一家は難を逃れ、シェルブールへ避難。フアルダン家に厄介になります。
1871
パリ・コミューン蜂起。芸術家ではクールベなどが参加。ミレーはコミューンの芸術家連盟に無断で名を入れられたことに抗議する手紙を書きますが、それが公表されたのはずっと後のことでした。シェルブール滞在が長期化し、家を借りるなどの資金が必要になり、ロンドンにいる、デュラン・リュエル(印象派を売り出した画商)に画を買ってもらい、以後彼がミレーの主な画商になります。
 9月フアルダンの息子とミレーの長女が結婚。
1874
 パンテオンの壁画の依頼を受けますが、既に健康を害し、数枚の素描にとどまります。
 第一回印象派展がナダールの写真スタジオで開催される。
1875
 1月20日ミレー死去。シャイイの教会墓地のルソー(1812-1867)の傍らに葬られました。後にサンシエ(1815-1877)も彼らの傍らに葬られる。

( これはロバート・ハーバート氏、原田平作氏のミレー年譜を参考に、伝記、美術史を加味して制作しました。)


(4)ルソーの墓の写真 (5)ミレーとルソーの墓の写真 (6)ミレーの墓の写真
(7)サンシエの墓の写真

(4)ルソーの墓(5)ルソーとミレーの墓(6)ミレーの墓(7)サンシエの墓、植え込みがあるところがルソーの墓です。
尚、(1)(2)(3)は著作権の関係で割愛しました。
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